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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

失敗の話つづき
 新聞のカメラマンは一人前になるのに5年といわれていた。これに対し雑誌のカメラマンは、10年はかかると、私のいた出版写真部の先輩から言われた。これは何十年も前のことだ。この年数は最近は多少変わっているかも知れない。

 新聞の場合でも雑誌の場合でも、この5年とか10年とかいう年数は、写真の撮り方を覚えると言うよりは仕事の種類を一通り経験するための年月だと思う。新聞の場合は5年経つと一通りのことを経験する。

 5年、経験を積むととんでもない突発事件の取材であっても、過去に経験したケースに共通した点があるから、それほど慌てることはない。

 スポーツの取材でもそうだ。たとえばプロ野球。いきなり今日、後楽園ドームに行って写真を撮れと言われても、どこでどうして撮影してよいのかわからない。カメラの操作ではないシャッターを切るまでにいたる手続き上の問題だ。

 プロ野球公式戦取材はどうするのか、取材のときは後楽園球場のどの入り口から入って、どこにカメラを置いて撮影するのか、どこに取材席があるのか、これがわからなければいくら写真が上手でもどうしようもない。

 それぞれの球場ごとに取材ルールがあって、たとえば試合前のグランド内の取材はどの時点まで出来るのか、1塁側のカメラ席にはだれでも入れるのか、この撮影席にはどこからはいるのか、など、そこから始めると結構わからないことが多く迷ってしまう。

 プロ野球の公式戦の場合は各球場とも報道用の撮影席がもうけられているが、これだけではいい写真が撮れないので、どの新聞社も雑誌社もシーズンを通して内野、外野の一般席を買っている。このシートに行っても、その席ではどの程度の望遠レンズが使えるのか、その席から撮ったらどんなプレーの写真が撮れるのか、これは実際にその場所に行ってファインダーをのぞいてみなければわからない。

 東京での取材だけでも後楽園、神宮、横浜、千葉の各球場へ行ってみる必要がある。これはプロ野球だけではない。サッカー、ラグビー、そうして室内競技と、そのグランドを経験するだけで大変だ。

 スポーツ以外だって同じことだ。国会関係の取材がそうである。予算委員会の写真を撮って来てくれ、といわれても国会内の地理を知らないと、それがどの部屋で開かれているのかさえわからない。

 国会内にも取材ルールがあって、これを知らないとどうしようもない。本会議場でも予算委員会の部屋でも三脚が使えない、だから記者席にカメラを取り付ける三脚代わりの箱があるなどと言うことは実際に取材にいったことがなければわからないことだ。

 新聞社のカメラマンが実際に経験しなければいけないことはいろいろあるが、これを一回りするのに5年かかってしまう。これが、5年で一人前の根拠になる。これは写真の上手い下手と言うこととは違う種類のことである。

 雑誌の場合でも同様で、カメラを構えてシャッターを押すにいたるまでの課程が面倒である。一例をあげれば、私たちの時代でも芸能関係の取材はいろいろなルールがあってむずかしかった。しきたりを知らないで撮ろうとしても相手にされないことが多かった。

 映画全盛時代の撮影所での取材でもそうだった。映画の撮影中のシーンを撮るのでもどこで、いつ撮っていいのか、難しかったし。スターと言われる人たちの取材でも、休憩時間に撮影するわけだから、要領よく撮影を済ませることが必要だった。その辺のことがわかっていないと慌ててしまうだけでとてもいい写真を写すということにはならなかった。

 朝日新聞が有楽町にあった時代、隣に細い道路をへだてて日劇があった。日劇は通常は映画と実演をやっていた。実演は日劇ダンシングチームと役者たちのお芝居とショウであった。5階にはミュージックホールがあってここのヌードダンサーたちの踊りも評判であった。

 はじめ出版写真部の先輩につれられて楽屋で写真を撮ることを教えられた。これは写真のテーマとしては大変に興味深いもので、そのうち仕事の合間に暇さえあれば楽屋通いをした。始めは楽屋の受付に一々断って入れてもらっていたが、これも毎日行っているうちに受付のおじさんたちと顔見知りになる。

 こんなことは今だから言えるが、楽屋口を通らないで地下の食堂街から楽屋や5階の稽古場に抜けられる秘密の通路を自然に覚えたりした。受付だけでない。楽屋でだって始めは写真を撮るのは難しかったが、そのうち楽屋の中にいてもだれも意識しなくなる。

 雑誌の仕事はそう言うことが結構必要だったから、シャッターを押すまでに暇がかかった。日劇の楽屋通いは3年くらいつづいた。

 新聞のカメラマンでも雑誌でもカメラマンでも、こんなことをやりながら経験を積んでゆく、初めての体験をやっているうちは、緊張しているからシャッター以前の失敗はあまりしない。

 昔の話だが、アサヒグラフは週刊で刊行していたが、大きな事件があったり高校野球とかオリンピックなどかなりの種類の別冊を出していた。この臨時出版とは別に季刊で『映画と演芸』増刊を発売していた。『映画と演芸』は大正13年1924年に第1号が出ていたが戦時中休刊になりこれが昭和27年復刊になっていた。

 そんなことで映画やお芝居などの取材は、私が入社した昭和29年1954年当時、かなり頻繁にあった。そのころのことである。同僚のD君が、デスクから俳優の○○さんの写真を撮りに撮影所に行ってくれ。編集部のAさんが12時に撮影所で待っているからといわれて飛び出していった。

 どこの撮影所か聞かないでだ。D君は俳優の○○さんは東宝のスターだから東宝だと思いこんでいる。そのころ俳優さん女優さんの他社出演というのが流行った時代だった。

 1時近くになって記者のAさんから、D君が現れないのだがどうしたのかと写真部に電話がかかってくる。D君はほかの撮影所に行ってそこの宣伝部で待っていたのだ。宣伝部に行くことに慣れているものだから、待たされても不思議に思わない。

 写真部の同僚、先輩の方にも芸能関係の取材が好きな人がいた。これは本人には不名誉なことなので確かめたことではなかったが、ある俳優さんの写真撮影をたのまれて出かける。取材に慣れて居る人だったから、編集部員も一緒に行かず一人で行った。

 その俳優さんに特別の興味を持っていたと言うより、フアンだったのだろう。劇場の楽屋に行って、話しこんでしまい写真を撮るのを忘れ、社に帰ってきて気がついた。この先輩はとにかく芸能大好きで、編集部員がインタビューしている最中に写真を撮らずに話に割り込んでしまい。編集部員が困ってしまうことがしょっちゅうだったそうだ。

 この手の話は、あのころはいつも話題になった。競馬が好きなカメラマンがダービーの写真を撮りに行って、自分が買った馬が1着になるものと思いこんでその馬を先頭にした写真しか撮らなかった。その前に1着の先行馬がいたのだ、などというのもあった。

 失敗話は社内だけでなく、写真記者仲間、カメラマン仲間にあっという間にひろがった。話題になるカメラマンは陽性で、不思議にじめじめした話にはならなかった。と言うよりはこういうカメラマンは失敗で馬鹿にされるよりは、いつも人気者であった。