TopMenu


吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

三脚のこと
 6月のことだが、新宿へ竹内俊信さんのタスマニアの写真展を見に行った。タスマニアで夏だと言うのに雪に降られ、凍えそうになって撮影したとキャプションがついた写真が展示されていて、寒いという実感が画面から伝わってくるようで引きつけられた。この雪の作品のそばに日周運動の写真が出ていた。星の写真である。

 日周運動というのは地球が西から東へ自転していることから、恒星は東から西へむかって動くように見える天体の運動である。わかりやすく言うと地球が自転するために、天体が毎日東から西に向かって1日の周期で循環するように見える現象のことである。

 北の空にカメラを向けてシャッターを開けっ放しにしておくと北極星を中心にして星の光跡が円を描くように写る。タスマニアは南半球だから、南の方向に向かってカメラを向けると南十字星を中心に星が円を描く。そうして星の軌跡はシャッターを開けておく時間が長ければ長いほど長く写る。

 天文に関心のある人ならば誰もが1度や2度は写してみたことがある写真である。特別の道具は必用としない。三脚があれば写すことができる写真である。

 今から50年ほど前、日周運動を撮影したカラー写真はなかった。モノクロ写真は朝日へ入社した年、昭和29年に九州の写真部のだれかが撮影した写真が紙面に掲載された。北九州の炭坑のボタ山を手前に日周運動を写した写真である。

 その写真を紙面で見て、いたく感心してすぐ調査部へ行って調べたら、かなり以前から諸先輩がたが同種の写真をたくさん撮っていたことがわかった。それから天文に興味をもって星を撮り始めた。東京においてである。当時は東京の空もまだあまり汚れていなかったのだろう。結構きれいに日周運動の星の軌跡が写った。

 昭和30年代はじめ週刊朝日は見開きカラーページで風景、風俗、科学、歳時記的なものまでニュース写真をのぞいて見応えのある写真ならば何でも取材して掲載していた。事件、ニュース的なものはカラーページの締め切りが早く、発行されるまでに時間がかかるので扱っていなかった。

 当時、グラビアページ担当の副編集長であった足田輝さんは、北大の農学部出身で、そのあと科学朝日編集長を経て週刊朝日編集長をされた人だが、科学的な話題に興味を持っていた。何かの時に日周運動の写真のことを話したら、足田さんは欧米の科学雑誌も見ているが日周運動のカラー写真はいままで見たことがない。写せると思うならカラーでやって見てくれと言われた。星の光跡に色がつくかどうかもわからない。国立科学博物館の天文関係の主任教授であった村山さんをたづねたり、五島プラネタリュームで解説をしていられた人気の日下教授に話を聞きに行った。今考えてみると信じられないことだが、カラー写真で星に色がつくかどうかもわからなかった。45年ほど前のことである。

 足田さんに失敗してもいいから、とにかくやってご覧よと言われ。どこで撮ろうかと考えた。星だけ撮っても面白くない。画面に入れる地上のものだ。格好のいい山がいい。槍ヶ岳を入れよう。地図で調べて見ると北穂高山頂が槍のほぼ真南にある。

 北穂高の山頂から槍を入れて撮ろうと考えた。何故北アルプスを選んだか、山登りが特に好きというわけではなかったが、取材で山に行くことが多かったのと、まだ海外登山などは夢のまた夢のような時代であったから、そのころの山好きたちのあこがれと人気は北アルプスに集中したいたからだ。

 3月の終わりに東京を出発した。松本で北穂高の山頂小屋の持ち主、小山さんから小屋の鍵を借りた。小山さんに一人で行くのでかと尋ねられ、そうだといううと今年は雪が深くて涸沢からの登りが大変だからボッカを頼んだほうが良い言われて、カメラ3台と三脚2個の大荷物なので半分持ってもらうことで、夏小屋で働いている人に急にガイドをお願いした。

 翌日、上高地から涸沢に入って一晩泊まり、翌日朝早く北穂高山頂に向かった。夏だとゆっくり登っても3時間ほどの行程であるのに、急斜面の雪が胸まであって交替でラッセルしながら登るのだがはかが行かない。山頂まで10時間以上もかかってしまった。

 一人では登れなっかったかもしれない。ガイドの人は今日降りなければいけないといって、荷物を下ろすと飛ぶように帰ってしまった。天候は荒れ模様である。風が強かった。南から低気圧が近づいていて、気温は低くなかったがやっと立っていることができるくらいの風だ。

 頭の上を雲が飛ぶように流れていく、日没がちかいので撮影の用意を始める。ときどき槍ヶ岳の山頂が見える。山頂に三脚を並べて立て、風で動かないように手頃の岩を拾ってヒモで結び三脚の重しにする。

 ファインダーをのぞいて槍の山頂を画面の下に入れ、北の空を画面一杯に取り込む。陽が沈むころから晴れてきた。夜8時過ぎ、完全に日が暮れてから撮影をはじめる。カメラは4×5判の大型カメラ1台、6×6のマミヤフレックスそれにキャノン4SBと全部で3台。三脚は真鍮製の大型三脚、とスリック三脚これには支柱をつけてマミヤとキャノンを取り付けた。

 台風のような生ぬるい風が強く吹き付けていた。月が出ない日を選んできていたから、当然、月明かりはない。懐中電灯はつけなかった。うっかりしてレンズから余分なヒカリが入ることを恐れたからである。真っ暗闇である。ときどき雲が上空を走っていたが、かまわず露出をする。30秒を1単位で何回かシャッターを開ける。 1枚取り終わるとレンズに露がついてはと思いレンズを拭いた。

 いろいろ東京でテストをしていたから、レンズの明るさはF1.4かF2で星の光跡は確実に写ることはわかっていたが心配であった。レンズの暗い大型カメラのほうは増感現像を予定していた。とくに4×5フィルムの方は1回現像したフィルムをデュープすることで大丈夫と計算していた。一番心配していたのは天候であった。それがいきなり撮影できたのだから、こんな幸運はないと思った。

 春山のそんな時期でも、深夜穂高の尾根を縦走しているグループがいて何回か山頂を通って行く、声をかけられ、最初は飛び上がるほど驚いた。一休みすることもなく撮影がつづき、ふと気がついたら東の空がわずかに明るくなった。そこで撮影は終わりである。

 完全に明るくなってカメラを片付けようと思った。そのときあれっと思った。カメラが傾いている。大型カメラのファインダーをのぞいて一気に頭から血の気が引いた。始めにセットした位置とちがう。レンズが下を向き斜めになっているのだ。三脚が動いたのではない。大地が動いてしまったのである。

 生ぬるいような強い風が吹き続けていた。夕べ、三脚を据えた頂上の岩盤と思ったのは氷だったのだ。気温の高い低気圧の南風で岩と思った大地が溶けていったのだ。それがわかったとたん、冷や汗が吹き出てきた。どう考えてもこれでは日周運動は写っていない。情けなかった。

 気持ちを押し沈めて考えた結論は、今夜もう1度撮り直す以外に方法はないということだ。小屋にカメラを持ち込んで整理をした。食事をする元気もなく、倒れるように眠ってしまった。何時間か眠って気がつくと外は暴風で激しく雪が降っていた。

 小屋のラジオに電池を入れて聞いてみると、気圧の谷が停滞して今日は荒れ模様だと言っている。丸一日、食事をしていないのに気がついた。何か食べなければと思うのだが食欲がない。外に出てみると昨夜、撮影した山頂には雪が厚く降り積もっていた。

 3日荒天がつづいた。今のようにケイタイがあるわけでなく、山小屋に電話がついている時代ではないから東京に連絡は出来ない。社を出てくるとき予定は5日、万一遅れても6日目には帰社すると言ってきた。4日目になって雪は止んだが山頂は厚い雲につつまれている。

 やむをえず山を下った。上高地まで降りて、社に電話を入れた。写真部には失敗した話は出来ず悪天候で撮影が出来なかったと言った。ウソをついていることでまた気が重くなった。そのあと、週刊朝日の足田さんなには事情を話した。まあー、そんな、すぐには出来ないよ。また出直すんだなーと言ってくれた。

 東京に帰って、深夜、現像をした。35ミリカメラには光跡が写ってはいるが、見事に流れてしまって何を写したのかわからないような写真になっていた。

 そのあと、事件が重なったりして、仕事が忙しく日周運動の撮影が出来なかった。冬になったら空気は澄むし、星はきれいに写るだろう。来年の1月に行こうと思っていた。

 ある日、社に行くと、足田さんから写真部に電話がかかってきて編集部にすぐ来いという。週刊朝日の編集部にいくと、足田さんが英国のサイエンス誌(たしか『ネーチャー』だったと思うが)に載った日周運動のカラー写真をだまって見せてくれた。

 また悔しさがこみ上げてくる。この失敗は私の写真人生の3大失敗の一つだと思っている。三脚がいくら性能がよくても、これを置く大地が動いては駄目だ。都会の道路だって動く、鉄筋コンクリートの建物でもうごいていることがある。歩道橋などは大揺れに揺れている。学校で三脚の話をするときに、この失敗の話をすることにしている。

 足田さんは朝日を定年で辞められてから。ナチュラリストとして植物に関連した著書を何冊も出された。何か仕事のたびにおまえには貸しがあると言われたが、これは新米カメラマンへの励ましの言葉であったと思っている。

 50年ほど前の苦い苦い思い出である。