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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

キヤノンF−1
 いままでにキヤノンから発売されたカメラのなかでの名機は、キヤノン4sbとF−1だと思う。この二つは私にとっても銘機であり名器であった。

 EOSはどうして名機のなかに入らないのかと言われるかも知れないが、これはあまり使ったことがないから、なんとも言えない。EOS−1Vを発表会で見せてもらったが、オートフォーカス機構などたいしたものだと感心してしまう、しかし本当の評価は10年経ってみないとわからない。

 キヤノンF−1のことを書こうと思う。F−1はAE−1やA−1より先に発売されていたが、何故かこのカメラをつかってみようと思わなかった。ところがある機会が、このカメラを使用するお膳立てを整えてくれた。

 1975年、昭和天皇と皇后がアメリカ訪問の旅行をされた。25年前である。その4年前、1971年にはお二人でヨーロッパを親善訪問された。私はこの両方の天皇親善旅行に取材の随行記者団に加わった。

 5月天皇ご夫妻がヨーロッパ訪問をされた。新聞やテレビの報道を見ていて感じたのだが、、いまとちがって昭和天皇のときは報道各社の熱気はテンションが高かった。新聞は当然、大紙面をつかって報道するし、TVだってこれは視聴率も高く絶好の番組であるから、かなり大がかりな取材体制をとって報道することになる。当時はまだ天皇信奉世代がまだたくさんのこっていた。

 雑誌でも事情は同じだ。日本の出版界では天皇に関する特集、特に写真特集の別冊雑誌はそれまでもかなりの部数が売れていたからヨーロッパご訪問などとなればこれは何10万という単位の部数の雑誌が売れたから、これもそれぞれの雑誌が記者、カメラマンを特派して取材することになる。

 随行記者団に人数を制限なく参加させたら収集がつかなくなるなるから、新聞協会に加盟の新聞の場合はこれに参加する記者とカメラマン各1名が認められる。これは外務省と宮内庁が窓口になる。宮内記者会に入っている社は3名くらいは参加が許された。

 これは新聞と放送各社のことで、雑誌記者会は従来からの慣例ということで宮内記者会に入ることが認められていなかった。それでもヨーロッパ訪問旅行のときは雑誌協会代表と言うかたちで随行記者団に2名だけが参加した。

 これでは取材ができないから、雑誌各社は随行記者団とはべつに雑誌協会で派遣記者団をつくりプールして取材をすることになった。

 ヨーロッパ訪問旅行ときは私は新聞社からの派遣という名目で、随行記者団に加わり新聞のカメラマンとして取材することになった。朝日新聞では出版写真部の私とはべつにM君が派遣された。

 このカメラマンの派遣事情は朝日の出版局としては、ほかの雑誌社にくらべ大変に有利な取材条件であったのだが。実際に取材が始まってみると必ずしもそうとも言えないことが生じてきた。たとえばロンドンで行われた歓迎行事を見ると、取材カメラマンは取材場所に張り付けられてしまう。

 外務省がイギリス政府の担当者と相談して実にたくさんの取材場所をつくってくれたのだが、新聞各社のカメラマンで全部の取材場所をカバーするには人数が足りない。新聞は特別の場合以外はプール取材はしないから、このあまった取材ポジションが全部雑誌協会に提供されることになる。

 雑誌協会の取材団は、はじめから1チームとしての取材体制をとっていたから、プール取材で全部のポジションの写真が手に入ることになった。こうなると取材の厚みと、情報の多さと言うことで、各社単位の取材をする随行記者団のほうがかえってつらいところが出てきた。

 それから4年経って天皇のアメリカ訪問がきまると、ヨーロッパでの経験もあることだから、是非この取材もやってくれと言われてまた出かけることになった。このときは雑誌協会のチームに属してということになった。

 新聞社の方の随行記者団の人員枠もあったから、この方にもはいって、いわば二股かけえての取材と言うことである。出発前ずいぶん以前から、雑誌各社の特派メンバーの打ち合わせが何度も行われた。

 このときの報道関係の準備などは大変に大がかりなもので、日本からの特派員だけでなくアメリカに勤務していた各社のメンバーに加えて、在住の写真家までも動員され大規模なものになっていった。

 この打ち合わせをしているうちに、ニコン、キヤノンの両カメラ会社からアメリカの出先だけでなく、日本からも社員を派遣して使用カメラの整備にあたらせましょうという話になった。各地の報道関係の宿舎になるホテルに修理のデポを設けられるというところまで発展した。

 1チームでの取材だから望遠レンズなども共用のものを融通してつかおうということになる。そうなるとカメラボディは共通のものを使用したほうがいいのではと言うことになった。雑誌協会メンバーの常用カメラを調べてみるとキヤノンのほうが多い。

 当時、新聞各社は、ほぼ90パーセントニコンを使用していた。雑誌の方は何故かキヤノンFが多かった。そうなると吉江さんもキヤノンを使ってくれませんかという要望もあってキヤノンを使わざるを得ない状況になってきた。これは誰が仕組んだことかわからないが、新聞はニコンに世話になる。雑誌はキヤノンにという形が出来てしまった。

 キヤノンが期間中F1を何台でも提供しますと言うことで、この取材ではじめてキヤノンF−1をつかうことになったのである。F−1はたしか1971年に発売されていた。わずか数年で雑誌関係のカメラマンがこれだけF−1を使い始めたのはキヤノンの猛烈な営業活動があったからだろう。

 アメリカに出発するまでに1月くらいになっていた。 忙しかったが慣れないカメラで取材撮影することは出来ないから、追い込みでテスト撮影をした。使ってみるとこのカメラが計測する露出は大変に正確でつかいやすかった。

 ご存じのことと思うが、ニコンとキヤノンでは焦点を合わせるレンズのヘリコイド回転が逆で、これがあるのでカメラを変えると素早い焦点調節が出来ない。これが機種変更の難点となるのだが,AE−1、A−1で35〜70ミリのズームレンズを使用しはじめた時期と重なっていたので、いろいろなレンズをつかってみてもそれほど困ることはなかった。

 キヤノンが用意してくれた2台のF−1にはモータードライブがつけられていた。これはいままで使用してきたどのカメラより重かった。これだけは言葉どおりの重荷であった。

 この原稿を書くために、しまい込んであったF−1を取り出して改めて眺めて見たが、直線的なデザインは大変にすっきりしていて魅力的だ。無駄なデザインの遊びがない。ペンタプリズムの部分も背が低く、結構、角張っているのに美しい。これはニコンFと共通した美しさだと思う。ボディはずっしりとしていて重く金属の塊のような印象である。

 キヤノンF−1のアメリカでの使用経験を書かなければいけないのだが、これは来月書く。昭和天皇のアメリカ訪問の2週間の取材旅行を終わって帰国したとき、F−1、2台をキヤノンに返却したが、すぐ1台のF−1を買った。このF−1はニューF−1が出たときも買い換えないで取材にずいぶん使った。

 不思議に思うのは、このとき買ったF−1ほとんど傷がついていないことだ。ブラックボディは傷が付きやすく、撮影をしている間に擦り傷やらぶっつけ傷が付いてしまうのだが、じつにきれいなままで残っている。とくに大事に扱ったという記憶もないから、考えられるのは、F−1の塗装が特別によかったとしか考えられない。

 同じくらい使ったブラックボディのカメラにライカのM−5があるが、このカメラなど大事に使ったと思うのだが結構傷だらけでなのである。