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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

キヤノンAE−1・A−1
 ミレニアム(2000年祭)と世紀の変わり目ということで、ここのところ2000年だけがとりあげられ元号平成は影が薄いようである。ミレニアムから21世紀へ、この変わり目でデジタル写真の世界も多分びっくりするような変化をするのだろう。

 振り返ってみるとここ数年のデジタル写真関連の変わりようは、単に驚くなどという言葉では表現できないほどだった。カメラもそうだがデジタル写真に関係するいろいろな周辺機器や材料の進歩もすさまじい。

 数年前、PCでデジタル処理をした写真をプリント出力するのにはフジのピクトログラフィーしかなかった。だから私もプリントはほとんど全部外注していた。カラープリンターは持っていたが写真をプリントしてみて、プリンター出力はこんな程度のものとあきらめていた。

 ところがプリンターの改良進歩がすさまじいことになった。つい4年ほど前には銀塩のプリントと比較のしようもなかったのだが、写真用6色、5色インクを採用したキヤノンとエプソンのインクジェットプリンター競争が高品質出力に火をつけた。

 フォトインクの採用はたしかキヤノンがはやかった。だからキヤノンのBJC−700が発売されたとき、それまでインクジェットプリンターはBJC−610をつかっていたのだがすぐ買い替えた。これでA4判にプリントアウトした写真を写真学校の先生方にはじめて見せたらみんな驚いた。誰もが写真をこんなにきれいにプリントできるとは思っていなかったからだ。

 今発売されているキヤノンBJF−850でもエプソンのPM−800Cでも、さらに一段と改良され高画質になっている。これから1、2年の間にどうなっていくのか、楽しみでもあるし心配なくらいである。多分、高速化がプリンターのこれからしばらくの課題になるのだろう。

 いま私はレーザープリンター1台と写真用にインクジェットプリンター・エプソンPM5000CとエプソンPM770をつかっている。なぜ、はじめ使っていたキヤノン・インクジェット・プリンターがエプソンに替わってしまったのか、これには理由がある。

 カメラを使っていたからキヤノンにはなじみがある。エプソンとキヤノンとどちらを選びますかと言われたら、キヤノンの製品に対するいままでの信頼があるから、どうしてもキヤノンを選ぶ。写真画質用インクジェットプリンターを最初に買うときもそんなことでキヤノンBJC700を買った。

 私は現在、ウィンドウズとマックの両方のPCを使っているが、PCJ−700を買ったときは 写真処理用にPCはマックPM9600を使っていた。キヤノンはウィンドウズPCだけを対象にして、マックを相手にしていなかったようだ。使用説明書もウィンドウズのことは書いてあるが、マック用はなかった。接続のソフトもキヤノンではなくピクセラという会社が作っていた。

 このプリンターを動かし始めたときに不具合が起きてキヤノンのサービスに電話をしたら、マックでの使用については知りません。接続ソフトを出しているピクセラに聞いてくれと素っ気なく扱われてしまった。それまでもキヤノンのプリンターはマックには相性が悪いとは聞いていたが、相性が悪いのは機械ではなくてサービスの人間だとわかった。

 マックで2ヶ月ほど使ってBJC700はウィンドウズPCにつないで使った。マック用にエプソンを買った。キヤノンという会社はプリンターだけではない。カメラだってニコンに水を空けられたのは、会社の方針でプロサービスをやめますとなったら、この方針がすぐ徹底してしまって全員右へならえをやったからだ。それでプロ写真家がキヤノンから離れてしまった。

 一眼レフカメラ時代になる以前、私はニコンSよりはキヤノン4sbを使っていたから、どちらかと言えばキヤノン党であったのだが、ニコンを使うようになったのはキヤノンの永続性のない商売のやりかたにあきれてしまったからだ。

 ずっとニコンFを使っていた私が、キヤノンの一眼レフを10数年たって、また使うようになったのは、前回申し上げたとおり一本のレンズを使うためであった。ズームレンズである。このズームレンズを付けて使ったのがキヤノンAE−1である。まだNEW・F−1は出ていない時期であった。

 F−1は発売されていたが、キヤノンの宣伝部は何故かF−1を積極的に売り込みにこなかったし、朝日新聞社では新聞の写真部も私たちの出版写真部も主力機はニコンF型と決まっていたから、キヤノンの一眼レフカメラには10年以上遠ざかっていた。

 この期間は多分キヤノンがプロサービスを止めていた期間と重なっていると思う。ズームレンズを使いたいから試用機をかして欲しいと依頼したら宣伝部が持ってきたのがAE−1であった。

 テストの結果がよかったので、ズームレンズを使ってみたいと思っていたからAE1台と35ミリ−70ミリのレンズを買った。これが1975年(昭和50年)だったと思う。ズームレンズのつかいはじめであった。

 ズームレンズが便利だと思ったのは、その当時よく引き受けていた皇室関係に取材のときであった。たとえば当時、海外から国賓が来日して歓迎行事が行われた。このときのいろいろな場所での撮影取材は場所が固定され自由に動けないのが通例であった。

 また皇太子(現天皇)が美智子さんと出かけられるときはどこでも、報道関係の取材場所は固定された。美智子さんの人気は絶大であった。新聞社のカメラマンだけでなくたくさんの雑誌社のカメラマンが取材に加わった。取材の人数が多いから取材制限も増える。

 宮内庁と記者クラブで取材を潤滑にするために協定ができ、次第に制限がきびしくなっていった。この制限された取材場所に行って撮影するときズームレンズが便利であった。対象との距離はいつでも一定であるわけがないから、画面のつくり、つまりフレーミングにズームレンズが役にたった。

 撮影場所で普通は50ミリレンズくらいがちょうど良いのだが、場所によってはこれでは少し狭い。あるいは距離がありすぎて遠いとき、単焦点レンズでは画面が中途半端になってしまう。普通の撮影ならば自分が動けば良いのだがこれが出来ない。

 だから報道関係でズームレンズが最初に使われたのは、フレーミングの微調整という目的からはじまった。しかしこれは考えてみると自分が動かずにズーミングでフレーミングが出来るのだから、はじめからズームレンズを使うと、この便利さに溺れてカメラ位置アングルをきめるためのフットワークがおろそかになってしまう。

 AE1を使い始めて1年くらいたったときにキヤノンは測光モードを自動化したキヤノンA−1を発売した。キヤノンはAシリーズと言ったと思う。はっきり覚えていないのだがキヤノンがAE−1よりA−1のほうがはるかによいのでという理由でカメラをの交換をしてくれたと思う。

 この原稿を書こうと思って、カメラをしまいこんである物置を探したのだが、AE−1のボディが1台も見あたらない。ズームレンズつきでA−1のボディが2台出てきた。使ったカメラは処分しないで大体しまい込んでおくことになっているので、それがないということは、おぼろげな記憶だが、どうやらA−1に交換してもらったのに違いないと思う。

 この2台のA−1のボディには、どちらも巻き上げ用のモーターワインダーがついていた。