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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

一眼レフカメラの長所と欠点
 ニコンF(35ミリ一眼レフカメラ)ができて何が便利になったか、39年経って一眼レフカメラが一般的になった今、そんなことはだれも考えてもみない。F以前のことを書かないと、なにが便利なのかはわかってもらえない。
 ニコンFを使いはじめたカメラマンが一番最初に感じたことは、望遠レンズがきわめて自由に使えるということだった。焦点がファインダーの中ではっきりと見える。フレームがしっかりしているから、画面一杯に撮っても頭が切れたり足を切ったりする心配がない。それにもまして、驚いたのはピントがよく合うことだった。

 私が朝日の出版写真部に入って、最初に使った小型カメラ用の超望遠レンズはテリートの10インチ(25センチ)と15インチ(38センチ)のレンズだった。新聞の写真部とちがって小型カメラつまり35ミリカメラは以前から使われていたから、ライカ用のレンズは広角、長焦点とも一通り揃っていたし、当時は超望遠と言われる10インチ以上のレンズもあった。

 テリート・レンズにはミラーボックスがついていた。カメラボディとレンズのあいだにつけて上部からのぞきこんで焦点を合わせる。プリズムは入っていないから左右逆像である。中心部がぼーっと見えるだけで、かろうじてファインダーの役をはたした。撮影するときはレリーズでミラーを一度、上に上げてから改めてシャッターを押すことになる。

 これではスポーツ写真の撮影はとても無理だ。三脚に載せてあまり動かないものを撮影するのがやっとだった。このレンズはずいぶん使ってみたが、10インチ・15インチどちらもピントは良くなかった。その上、内面反射がきつく、そのためかフレヤーが出た。画像にコントラストがなく、写真を作るのには適していなかった。これはモノクロ写真の時代のことだ。今、カラーフィルムをつかって撮ったら色収差がでて、あるいは面白い効果の写真が撮れるかも知れない。

 私の部にはテリート・レンズのほかに500ミリの望遠レンズがあった。日本光学製であったような気がするが、このメーカーがどこであったか、どうしても思い出せない。距離は目測で合わせる。ファインダーはなくて照準は小銃などと同じように、レンズの先端についている棒の先の丸い小さな部分とカメラに近いほうについている棒の先の点とを合わせて、目標をねらってシャッターを押すと言ういい加減なものであった。ピントの精度はテリートレンズよりよかったが、ファインダーがついていないから、このあたりが写っているだろうという見当だけで撮らなければならなかった。

 これが一眼レフ以前の小型カメラ用で「超」がつく望遠レンズの実態であった。10インチなどという超望遠のレンズでなくても標準レンズ以上の長いレンズをつかうのには、焦点合わせはもちろん、ファインダーに苦労をした。このことは以前にミランダカメラのことを書いたときに詳しく述べたが、一眼レフカメラ以前にはたとえ100ミリのレンズでもそんなにうまく使いこなしている人は少なかったと思う。ピントもきっちりとは合わなかったのだ。

 小型カメラだけではなく大型カメラでも同じだった。新聞社用のスピグラ(スピードグラフィック)はレンズを交換することはできたが、スポーツ写真を撮るときくらいしか、レンズを付け替えることはしなかった。スポーツ撮影用に小西六製のテレ・へキサー400ミリレンズをどこの新聞社もつかっていた。スピグラの蛇腹を少し伸ばして長い鏡胴のついた400ミリレンズをつけた。撮影するときは裏ブタをあけてピントグラス(焦点板)でピントを合わせ、フォーカルシャッターの膜をおろしフィルムを入れて改めてフレームファインダーを見て撮影をした。

 このテレ・へキサーレンズにはシャッターはついていなかったので、スピグラのフォーカルシャッターをつかった。ファインダーはレンズボード上についていたフレームに小さな枠を取り付けて利用した。これは正確ではなく、多分このくらい画面に入るだろうというかなり大ざっぱなものだった。

 400ミリレンズと言っても35ミリレンズに換算すれば100ミリほどだから大した望遠ではない。それ以上の望遠レンズもあって、これはほとんどがアメリカ製のグラフレックスと言う大型一眼レフカメラを使用した。朝日新聞でもこれを使っていたし、私のいた出版写真部にもこのグラフレックスと700ミリレンズがあった。こんなレンズが何のためあったかと言うと、甲子園の高校野球の取材があったからだ。朝日が主催する高校野球は当時から大変な人気があって、新聞の紙面の扱いも大きく、これにしたがって雑誌の扱いも当然大きくなる。さらに大会終了後にアサヒグラフの甲子園特集と言う別冊が発行されていた。これが人気で大変な売れ行きであったから、商売としてもいい加減なことは出来ない。勢い高校野球の取材には力を入れざるを得ないと言う事情があった。

 グラフレックスはスピグラを製造していてアメリカのグラフレックス社の製品である。大型一眼レフは戦前からイギリス製のソホフレックスとアメリカコダックのオートグラフレックスがあって有名であったが、戦後グラフレックス社のP.B.スーパーD.グラフレックスが発売されて、これが新機能をとりいれ最新製品とされていた。私か朝日に入る3年ほど前からこのカメラと700ミリレンズはあった。当時入社した私が聞いた話では、60万円以上の買い物だったということだった。大学卒初任給が7、8千円の時代である。

 このレンズで野球の写真を撮るのは、今のように対象を追いかけてピントを合わせながら撮ることはとても無理で、焦点をあらかじめ何かに合わせておいてシャッターを切る方法が一般的だった。たとえば2塁ベースに焦点を合わせておいて、塁上のプレーを撮影するような方法であった。その場合も焦点を合わせたらシャッターをセットしてミラーを上げておき、フィルムの引きブタを引いておいてシャッターボタンを押すだけにしなければならなかった。ワンチャンスに何枚もシャッターを切るなどということは当然出来なかった。つまり1枚のシャッターを切るまでの手続きと手間がかかったと説明した方が良さそうである。