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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

ブロニカGS
 写真を撮りはじめてから50年経っている。いままで使ってきたカメラのことを思い出して見ると、それぞれの撮影で写真表現の目的に一番適したカメラを探し出し、その時代に一番いいと思うカメラを使ってきたと思う。
 アマチュア時代は別だ。カメラを買う金がそんなにあるわけがない。写真で飯を食うようになっても、自分個人の財力では何から何まで試して見ることはとても出来なかっただろう。幸いなことに朝日の出版写真部に入ったことで、その要求が満たされた。昭和30年代、出版写真部は写真ジャーナリズムの最先端をいっていたから、カメラメーカーも試作の新しい機材をどんどん持ち込んできたし、海外の製品でも試用する機会は限りなくあった。写真部には毎期予算があって有り余るほどではなかったが結構たくさんの新しい機材を買い込んでいた。それにアサヒカメラの編集部が新聞社内のおなじフロアーにあったから、カメラ業界の新しい情報も入ってきたし、またアサヒカメラの編集部に出入りするたくさんの写真家から、カメラを使っての体験や評判を聞く機会が多かった。

 中判カメラのことを書いているので中判カメラに話を戻す。中判のカメラに関してはおなじ部の先輩のなかにはいろいろな人がいた。ローライフレックス専門の人がいて、ローライオートマットに加えてテレ・ローライや広角ローライまで自分でそろえて中判カメラはローライが一番と言う人がいた。また中判カメラを使わず4×5判の大型カメラを中判カメラなみに使う名人がいたりして、その理由も多種多様だった。しかしほとんどの部員は新しい機材をテストして、そのとき、そのときに一番良いというものを使っていた。

 昭和30年代のはじめから、出版写真部で使っていた中判カメラを列記してみると、いろいろなカメラがあるが、メインのものではマミヤフレックスCプロフェッショナル、ブロニカDからC、ハッセルブラッド、マミヤRB6×7などでであった。
 30年代はマミヤCの二眼レフカメラとブロニカ、40年代からはハッセルブラッドが主力でマミヤのRBが補助的に使われた。
 ハッセルについてはプロの世界では現在でも中判カメラの第一線だし、これにとって代わる性能のカメラははっきり言って見あたらなかったと思う。もちろん欠点もたくさんあった。シャッターの精度の悪さ、内面反射が出ることなど。しかしそれ以上のカメラがなかったことがハッセルの人気を保ってきた理由であった。

 そうしているうちにフイルムの面積の点から6×6サイズよりは6×7あるいは6×8サイズのカメラが必要になってきた。昭和45年になってマミヤRB67が発売されたのも、そういう需要があったからだ。
 アウトドアでつかうことを考えなければ、マミヤRB67は中判カメラとしてはかなりいい線を行っていた。レンズの性能もパンフォーカスで写真を撮ることだけを考えたらまずまずの鮮鋭な描写をした。しかしマミヤもRZになってからの最近のレンズは使ったことがないので断言はできないがボケ味がいま一歩と言うところがあって私はあまり好きでなかった。

 写真の表現にはボケを利用することがあるので、ボケの部分の描写がきたないレンズは性能の点で制約があることになる。35ミリカメラでもかっては日本製のレンズはボケ味の点でドイツ製のレンズに劣っていた。中判カメラでボケ味のことをあまり言わないのは、精密描写にこだわっていることが多いからだが、現実にはボケのきれいさが必要なことも多いのである。
 ブロニカカメラは最初のころニッコールレンズを使っていたが、しばらくしてゼンザノンと言う名称のレンズを発売した。ところが初期のゼンザノン・レンズはボケがきたなかった。たしかに中判カメラではパンフォーカスつまり対象全体にピントの合っている撮影が多いのだが、それだけではないからボケが汚いことでみんな初期のゼンザノン・レンズを嫌ってつかわなかった。

 昭和58年になってブロニカはゼンザブロニカGS1を発売した。マミヤRB67の最初の型が出たのが昭和45年だから13年の遅れだった。マミヤは6×7に早く目をつけたから、6×6より大きいフィルムサイズが必要だったプロの写真家たちは、はじめは首を傾げながらも、実際に撮影してみてその機能の高さから次第にこのカメラをつかうようになっていった。

 風景写真の撮影にRB67を何度かもっていったことがある。撮影出来ないことはないが、カメラの重さ、大きさ、そして撮影までの手間は4×5インチサイズの大型フィールドカメラを持っていくのと変わりがない。大型カメラに慣れているものにとってはRBはあまりメリットがなかった。

 ブロニカのGSが発売されたときは誰もがあまり期待していなかった。テストのために出版写真部に持ち込まれてきたGSも、はじめのうちはだれも本気でテストをしてみる者はいなかった。それでも手持ちで撮れる6×7判のカメラはほかになかったから、ぼつぼつ使ってみようかということになった。
 ブロニカGSにはAEプリズムファインダーがついていて、絞り優先の自動露出が出来る。テストしてみるとこの自動露出が大変に正確で、いろいろな撮影表現で自分が加減して決めるであろう露出をきわめて無難にこなしてくれることがわかった。このカメラ内蔵の露出計をつかってのマニュアル露出でも微妙な露出を計りだしてくれる。これがGSを見直して使い始めるきっかけであった。すこし慣れてくると35ミリ一眼レフと同じくらい楽にスナップ撮影が出来る。ハッセルをつかうのとおなじくらいの感じで手持ち撮影ができるのだ。

 何よりも故障が起きない。かってのブロニカにつきもののシャッター関係の故障がまったくなくなっていた。それまで部にあったGSを使っていたのだが昭和60年になってGSを購入した、そのとき一緒に購入したマクロ110ミリレンズが優秀であった。これをつけたブロニカが愛機になる。

 アサヒグラフはずいぶん以前から考古学関係の記事が多く、これが人気で評判でもあった。発掘の成果は日本各地で時を選ばず発表されるから、この取材も年中ひっきりなしにあった。発表は現地で行われることがほとんどで、日を決めて報道関係に一斉に行われるから、発掘物一つを撮影するのにも限られた時間と限られた場所で撮影しなければいけないことが多かった。昭和60年になって出版写真部の部長をやめた。しばらく撮影現場の第一線からはなれていたが、また現場にもどることになった。考古学に興味があったので、この取材をやらせてもらうことになった。

 この取材は35ミリカメラで撮影する分にはそれほど難しいことはないのだが、発掘物のたとえば土器の質感まで表現されることを要求されると、すこしでもサイズの大きいフィルムを使うことが必要になってくる。さらに発掘物だけを撮影するのであれば簡単だが、発掘の現場の写真も必要であるしこれにはスナップ撮影の技術も要求される。現場の写真は35ミリカメラで、発掘物は中判カメラでと考えるのが普通だが、これでは機材だけでも大変な量になってしまう。カメラを1台にしたいのだ。何回か取材をつづけるうちに、使用するカメラはブロニカGSになってしまった。GS1台だけを持って取材に行くのだ。