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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

ゼンザブロニカ #2
 カメラのデザインには、はじめて見たときからこれはいいなーと思わせる種類のものと、はじめはあまり気に入らないのだが、つかっているうちにそのデザインに愛着を感じてくるものとがある。前者のほうはブロニカが一つの例だ、後者のほうの代表はニコンFだ。デザインの好き嫌いは人によってちがうのだろうが、ニコンFのペンタプリズムの三角のトンガリは、はじめはどうしても好きになれなかったが、機能的にそのデザインがどうしても必要なものだとわかってくると、はじめ奇異に感じいやだなと思っていたものがよく見えるようになってくる。一方ブロニカには無理をしたところはまったく見えず抵抗なくこれはいいなーと思わせるものがあって、きれいなスタイルでほれぼれするようなところがあった。ブロニカは6x6判としてはやたら大きくなくて手頃であった。当時つかっていたマミヤフレックスCプロフェッショナルなどと比べて見てもいかにも洗練された格好であった。

 ブロニカDはハッセルブラッドを模倣して作られたカメラだ。無駄がなく引き締まって小さくまとめられやスタイルはハッセルを規範として作られたからだ。大きさも

   ハッセル1000F型の      ブロニカD型
   横幅  9センチに対して       8.8センチ
   奥行き 15.3センチに対して     16.1センチ
   高さは(ピントフードを折り畳んで格納したとき)
       10.2センチに対して     10.8センチ

と、ほぼ同じだった。どちらも7センチ以上の幅の縦に走るフォーカルブレーンシャッターがついている。素人考えだがどうもこれが無理だったようだ。ハッセル1000Fの欠点、泣き所はシャッターだった。これを真似したブロニカもこの泣き所をそのまま引き継いでしまったことになる。

 特に気にいっていたのは、レンズの焦点を合わせるヘリコイドの繰り出しが直進式で、ボディ右側のノブを動かすことピント合わせがじつにスムースにできたことだ。ミラーもクィックリターン方式で35ミリ一眼レフのミランダなどがシャッターを切るとミラーが上がりっぱなしで見えなくなってなってしまうのに比べると大進歩だった。ブロニカのミラーは上に跳ね上がる方式ではなく下に降下する珍しい形だった。ブロニカと比べたらその当時使用していたほかのブローニーサイズのフィルムをつかうカメラは貧弱でおもちゃのように見えた。シャッタースピードも1250分の1秒という高速シャッターがついていて、これが大変に正確であった。私のいた朝日の出版写真部でも発売されるとすぐ備品カメラとして数台購入した。個人的にもとにかく形の良さが大変気にいって、すぐ1台買った。

 ブロニカは故障がなくて順調に動いているときは素晴らしいカメラであった。
 しかし、このくらいシャッターに故障が出たカメラはなかった。病気がちの美女のようなものでそっと扱ってやらなければ、すぐ寝込んでしまって入院してしまう。低温、寒さにも弱かった。シャッターがこわれるのはフィルムを捲き上げるときだ。ゆっくりと捲き上げノブを操作していればよいのだが、一枚撮影して素早くフィルムを捲き上げ、シャッターをセットしようとするととたんに動かなくなってしまった。それとフィルム捲き上げのスプールに強い力がかかるためか捲き上げたフィルムがタケノコ状に曲がってしまい、これでギアがかみ合わなくなってしまった。捲き上げの機構をあまりにもスマートにまとめあげてしまったためかも知れない。

 ブロニカでは先月話題になった延田さんをはじめ技術関係の人たちが総出でこのブロニカDの故障にあたってくれた。そうしてじつにいろいろなことを試みたくれた。巻き上げの歯車の比率を換えてみる。ギアの鋼材の材質を変えることからはじまって、2、3週間に1台くらい改造をしたブロニカを持ち込んできた。しかし基本設計がスタイルを優先にしていたカメラだったから、その範囲内の改造ではどうしようもなかった。この改造を取り入れて最初発売したD型のあとブロニカは昭和36年にはS型を発売する。シャッターの機能などに大幅の改造が加えられていたし、そのため大きさが一回り大きくなっていた。当時の記憶を思い返してみると、時期的にどれが先だったかわからないが、基本の寸法をはみ出した改造型まで次々と持ち込まれてきた。ブロニカはハッセルと同じようにカメラ本体とフィルムホルダーを切り離してつかうようになっていたのだが、ボディーとホルダーを一体化したもの(つまりフィルムホルダーの交換が出来ないカメラ)を作った。これは、ボディとホルダーの境を取り払うことで内部の容積を増やしフィルム巻き上げとシャッターをセットするギアの数を増やすためだった。

 週刊朝日がカラー・グラビア・ページに当時評判の映画からタイトルを借りて『日本風船旅行』という連載をはじめていた。当時、航空写真は画面に地平線が入っているのが一般的だったが、新機軸の写真をもとめて地平線水平線をはずして地上の風物を垂直に撮影することが要求された。それまではスピグラなど大型のカメラが航空撮影の主なカメラだったが、なんとかいいカメラが欲しい。アイレベルのファインダーがあると航空撮影の対象が広がるのだがという私たちの希望を聞いて、ブロニカは、フレームファインダーを作ってくれたり、ピントフードにネジで取り付けるペンタプリズムを作ってくれた、フードの上に乗るのだから大変に不格好なスタイルだったが、これを使ってみると格好に似ず具合が良い。それほど暗くならず見やすかった。ほかに中判のフィルムが使えるアイレベルファインダーの一眼レフカメラはなかったから、あっと言う間にこれが航空撮影の主力機になった。主力機になることは、それだけ使われる回数が多くなることだった。多く使われるから余計に故障が目立つ、これはブロニカには気の毒なことだった。そんなことでブロニカはシャッターが駄目だという評判がたってしまった。ハッセルブラッドの1000Fだってブロニカと同じ使われ方をされたら、こんなシャッターのこわれやすいカメラはないとと言われたに違いないと思う。ハッセルはそんな評判がたつまえに1000Fをやめてレンズシャッターに換えてしまった。
 ブロニカが大改造したのはC型だ。焦点調節が直進繰り出し式から、回転ヘリコイド方式に変わった。昭和39年のことだ。