TopMenu


吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

一眼レフ『ミランダ』はすごかった
 秋山庄太郎さんが『男の肖像』写真展を、麹町一番町のカメラ博物館で開かれたときのことである。この写真展には戦後間もなく撮影をはじめられた作家や画家、政治家など名士のポートレートの写真を集成されたものであった。秋山さんは会場で「昔、撮った写真はピントがあまいね」「写真展のために、あらためて昔の写真をみたけれど、レンズもカメラも悪かったんだなあ」と話された。たしかに昔はレンズの性能も悪かったが、カメラのピントを合わせる機構がいい加減だったと思う。一眼レフカメラはピントグラスでレンズの焦点をそのまま見るのと同じことだから、一番単純で間違いのない方法だということがわかる。昭和30年代になって、ペンタプリズム式の一眼レフカメラができてから、だれにでも望遠レンズで焦点が合った写真が撮れるようになったのだ。
 ミランダでポートレートをテスト撮影して、自分がいままで使っていたものと同じレンズが、こんなに切れ味の良い描写をするなどとは信じられなかった。いままでレンジファインダーカメラで撮影した写真のピントは何だったのだろうか。それまで望遠レンズの使い方は、どちらかというと対象物とある程度以上の距離をおいて撮影することが多かった。理由の一つは被写界深度の浅さから距離をおいて撮ることで、ごまかして撮っていたのだ。この結果を目にしてミランダをすぐ手に入れなければいけないと思った。
 K(船山克)氏に頼んでオリオンカメラに交渉してもらった。ボディだけが手に入ってもしようがない。手持ちのレンズをミランダに取り付けられるように改造してもらわなければいけない。キヤノンの135ミリとニッコールの105ミリの改造を頼んだ。レンズの鏡胴のお尻を切って短くし、ミランダのスクリュウマウントに合うようにマウントをつけてもらうのだ。ミラーボックスでつかっていたキヤノン200ミリと、ニッコール180ミリはミランダにつけるアダプターをとりあえず借用することにした。

 銀座ニッコール・サロンがある松島眼鏡店にカメラ売場かあった。オリオンカメラの代理店をしていたんだと思う。Kさんにつれられてお尻を切るレンズをかかえて何回も通った記憶がある。
 それまで動物写真連載の撮影で、このレンズを使うことが一番多かった。レンズの明るさはF2.5、当時200ミリくらいの望遠レンズでこれだけの明るいレンズはなかった。レンズ前玉の口径は10センチ以上もあり、巨大なレンズであった。重いうえにレフボックスをつけなければピントか合わないので、このレンズを手持ちで撮影するのは難しく、とても無理であった。同じくらいの焦点距離のレンズはほかにもあったがレンズの明るさがちがった。キヤノンの200ミリレンズは明るさがF3.5であった。一絞りほどの差であるが、じっさいに撮影してみると、この差が大きかった。動物たちの住まいは、撮影に絶好の食事の時間には日陰になって晴天の日でもかなり暗かった。どの動物たちも眠っているとき以外は動きが速く、わずかでも速いシャッターを切りたかった。
 そのころのことを思い出してみると、動物園での撮影の道具立てはつぎのようなことが多かった。S型のニコンにミラーボックス付きの180ミリをメインに一台、キヤノン4sbに100ミリレンズをつけたものを1台、35ミリレンズをつけたライカかキヤノンが一台これを予備にする。180ミリのために三脚をもって行く必要であった。180ミリレンズであるが、レフボックスでは思うようにピントかあってくれなかった。そうして縦位置(縦画面)写真が撮りにくかった。横でも縦でもいいようなものだが、新聞の紙面では写真を大きく扱うのには縦位置のほうが都合がよかった。これは雑誌でもおなじで、横位置で撮影した画面を縦画面にするためにカットしなければいけないことが多かった。
 動物の撮影にだいぶ慣れてからでも、社に帰って現像をしてみると、せっかくの良い瞬間を撮ったと思ったものがアウトフオーカスで使えないことが多く残念な思いばかりしていた。撮影は動物たちの家の鉄格子か網の前、見物の子供たちが見る手すりの内側で、動物園の許可をもらって撮った。檻の鉄格子のすぐ前で撮影するようになって、最初に小便の洗礼をうけたのはトラである。飼育係りの部屋で小便でぬれたカメラを拭いていたら、その当時飼育係で最古参の高橋さんに「新聞社の人はみんなやられますなあ」「動物の写真は、いろいろな動物におしっこかけられて、臭いがわかってきて一人前、あれは動物のお近づきにのお印で」みたいなことを言われた。だから帽子と汚いレインコートとカメラにかぶせるビニールの布は必需品であった。

 ペンタプリズムつきのミランダを持って動物園に行った。ニッコール180ミリレンズをつけてもっていった。ミランダをつかうことで三脚を使わなくなった。無理だと思われた180ミリが手持ちで撮影できるようになったのである。写真が変わってきた。打ち明けごとをいうとミランダを使うことで、はじめて自分が撮りたいと思っていた動物の写真を撮ることかできるようになったように思う。

 当時、日本にはまだ動物写真家はいなかった。野生動物の写真を撮影に海外にでかけるなどは夢のような時代である。小学生朝日に使わなかった写真をアサヒカメラに掲載したら、ほうぼうから注文がきた。こちらは朝日新聞の社員なのでお断り申し上げたが、そのくらい動物写真を撮る人がいなかった。おなじころ動物写真を撮っている連中で、動物写真家のグルーブをつくろうということになって、私も招かれて7人の会ができた。メンバーは現在、動物写真家の大御所的な存在の田中光常さんをのぞくと、長野重一さん東松照明さんをはじめほとんどが社会派カメラマンで、動物写真を余技とする人が多かった。そんな時代であった。
 昭和33年に東京創元社が現代日本写真全集を刊行した。この中の1巻に動物作品集があって、私がミランダで動物を撮りはじめたころの作品が掲載されている。あらためて見るとそれほどのピントのよさは感じられないが、あの時代はそれが大変だったのだ。全集に載っているほかのかたの作品もピントという点からみると現在の動物写真のレベルよりはだいぶ劣っている。