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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

露出計
 デジタルカメラの時代になった今、露出計といっても何をする道具かわからない人たちがたくさんいる。適正露出などといっても写真にそんな言葉があったのかと言われてしまう。

 こんなことを書くと、コニカミノルタは露出計を含めてカメラ関係の生産を終了してしまったが、セコニックやドイツのゴッセンなど、現在も露出計を生産販売している関係の人に怒られてしまうかもしれない。しかしデジタルカメラで写真を始めた人は現実の問題として露出計というものがあることを知らない。

 写真を始めたとき、露出計内蔵カメラ以前の銀塩フィルムカメラから始めた人ならば露出計があることを知っているだろう。と言っても昭和20年代に写真を始めた人は露出計を使っていないから、露出計を知らないかもしれない。

 筆者が昭和29年朝日新聞出版写真部に入ったとき、出版写真部にはゴッセンの露出計が1台、部の共用の備品としてあった。入社してまもなくのころは写真部にあるカメラやレンズ、そうしてたくさんの機材が珍しくて、恐るおそる先輩に使い方を聞いた。

 ゴッセンの露出計は、はじめ、そんなものが部の機材にあることを知らなかったのだが、入社してしばらくして部長やデスクからカラー写真の勉強をしておくように言われ、色温度計と一緒に露出計の必要を教えられたとき初めて見た。当時は露出計を使って写真を撮っているカメラマンはほとんどいなかったのだ。

 撮影のとき露出を決めるは、経験だけが頼りだった。つまりこういう条件のときはこのくらいの絞りでこのくらいのシャッタースピードでと経験を積み重ねて写真を撮っていた。露出は自分の勘で決めるが一般的であった。その勘は最初はフィルムの箱や包み紙に書いてある「晴天順光のときは絞りF8で100分の1秒」で撮影しこれを積み重ねた経験でつくられたものだった。

 筆者が出版写真部に入った昭和20年代終わり頃から、雑誌のグラビアでカラー写真の印刷がはじまっていた。入社した昭和29年当時、週刊朝日の表紙はカラーであったが絵を使っていて写真ではなかった。グラフ雑誌アサヒグラフの表紙はモノクロ写真であった。筆者の記憶では昭和29年、月刊の科学朝日が1ページだけカラー写真印刷によるグラビアページを始めた。同じ月刊の婦人朝日のファッションのページがカラーであった。カラー印刷には手間がかかり締め切り入稿から発売までに比較的に日数の余裕のある月刊誌でしか出来なかった。

 カラー写真の初期は、露出の許容度が狭く、撮影のときの露出の過不足がそのまま失敗につながってしまう。白黒(モノクロ)写真のようにいい加減な露出をしていては印刷することができなかった。今までの勘による露出では通用しなくなってきていた。

 昭和30年になって、週刊誌のカラー印刷がいよいよ本番になった。出版写真部全員にウェストンマスター露出計が渡された。写真部の先輩たちがドイツのゴッセン露出計とアメリカのウェストンマスター露出計を取り寄せて比較してどちらにするかを決めたようだった。あとで両者を比較して使って見たがウェストンマスターのほうが使いやすかった。

 カラー撮影が頻繁になると露出のシビアに驚くことになる。絞り値で半絞りのちがいで全く予想もつかない色合いになる。モノクロ写真の場合は一般に少しオーバー目に撮ると良いと言われ、実際の仕事の上でもそうしてきたのだが、カラーフィルムで少しオーバーでは色が無くなってしまった。

 かってフィルムのケースに書いてあった露出の目安「F8・100分の1秒」と同じようにカラーでも晴天順光での目安はすぐつかめたが、曇ったとき、雨のとき、そうして夕方と人間の目はいい加減なものだから、正確に明るさがつかめず、とてつもない加減をしてしまう。撮影のときウェストンマスター反射露出計は必要な機材になった。

 だから高級カメラが露出計を内蔵したり、アクセサリーシューに取り付けたりして露出を計る便宜を考えるようになってきた。ライカの軍艦部に載せて使うメーターはM3以前から発売されていた。1968年ベトナムからの帰途、香港で2台目のM4を買ったとき、香港のカメラ店主がサービスでMRメーターをつけてくれた。

 しばらくの間はカメラにの上に載せて持ち歩いたが、あまり使わなかったので、いつの間にか仕舞い込んでいた。このメーターが計ってくれる露出値はある程度、参考にはなりますといった程度だった。しばらくぶりに取り出してM4ライカにつけてみるとデザイン的にはよく考えられていて、M4のデザインに合っている。

 露出計を使って気がついたのは、それまでの白黒フィルムでの撮影のときの露出がいかにいい加減なものであったかであった。それでも1年ほどカラー撮影を続けているうちにカラー撮影の露出のデータが積みかさなって、ほとんどの状況で露出計を使わずに撮影ができるようになっていった。

 露出計は勘でいったん決めた自分の露出値を、確かめてみるという使い方に変わっていった。もちろん露出計は必要ないなどと言うことではなくて、カラー撮影になれて気分的に楽になってきたと言うことだった。露出計はどんな撮影のときも必要で常に持ち歩いていた。

 ウェストンマスターは比較的丈夫な機材だったが、何かの拍子に狂ってしまうことがあった。写真部の同僚の中に大変に心配性の男S君がいて、彼は常にウェストンマスターを2台持ち歩いていた。2台あれば安心というわけである。

 ところが、ある時、Sは出張先で、2 台の露出計が違った数値を示すのに気がつく。どちらの示す露出が正しいのかわからなくなってしまった。なんとも不安でたまらずSは出張先の街のカメラ店で高価なウェストンマスターをもう1台買って、3台のうち2台の露出計が示す露出で撮影したという。2 対1の多数決だ。これはご本人から聞いた話であるから間違い ない。たしか深夜になってカメラ店を起こし買ったと聞いた。

 ウェストンマスターはどこへ行くのにも持ち歩くのは10年くらい続いただろうか。カメラでもフィルムでも新しい機能を持つ製品が現れれば、古いものが廃ってしまうのは当たり前のことである。ウェストンマスターは昭和30年から昭和40年代はじめまでの間使われた。

 やがて、露出計がニコマートTNに替わることになる。以前ニコマートFTNのことを書いたときに触れたが1964年ニコンがニコマートFTを発売する。このカメラにはTTL露出計が内蔵されていた。最初はニコンFの普及版カメラといわれてあまり関心を持たれなかったのだが、とんでもない機能をもっていたことから、別の用途でプロのカメラマンに使われるようになる。

 筆者の記憶では、たしか写真家の富山治夫君がニコマートを露出計に使うと正確で便利だと言いだしたことで始まったと思う。試しに使ってみると確かに便利で正確だったから、あっという間にニコマート露出計が広まった。TTLカメラが最初に発表されたのは1960年旭光学が発表したスポットマチックだったと思うが、はじめはそんなものが役にたつのかなくらいの受けとめ方だった。それがニコマートで一気に広まったのだと思う。

 FTNになる前だから多分1965年くらいからだろうか、ウェストンマスターの出番が少なくなってきた。ニコマートに100ミリレンズをつけて露出計として使うことが流行った。
 ニコマートFTは不思議なカメラである。ニコンFシリーズの普及型カメラとして発売されるが、メカニズムから考えると機構的には新しいものを先取りしたカメラだった。

 Fシリーズで横幕走行だった布幕シャッターをコパルのシャッターを使い縦幕走行の金属幕シャッターにした。それに加えてTTL開放測光の露出計内蔵カメラを実現していた。ある意味ではFシリーズに新機構を取り入れるために実験的な製作をしているようなところがあった。FTNになってから中央部重点測光になるが、全面測光のFTでは100ミリレンズをつけて測光をすると、いいままでの露出計にない正確な露出値を得ることが出来た。

 TTL露出計内蔵カメラが出来たことで露出計という個体の要が無くなったわけではない。それからしばらくしてストロボフラッシュ光(スピードライト)を計る露出計が必要になってきた。昭和40年代には、スタジオでの大型カメラによる撮影がタングステンライトによる撮影から、大型ストロボ光による撮影に替わっていった。

 従来の露出計では入射光式でも反射光式でもストロボ光(スピードライト)の露出は計ることが出来なかった。スタジオ撮影に限らずストロボの反射光や2灯撮影などでもストロボ光を計るフラッシュメーターが必要になった。

 いつから使い始めたのか覚えていないが、気がついてみたらミノルタのフラッシュメーターが使われるようになっていた。ストロボ1発シンクロで、天井に反射させて撮るバウンス撮影でも一応はストロボメーターで計るような方法が普通になっていた。

 筆者が一番長く使ったのはミノルタのフラッシュメーターで、ストロボフラッシュ光だけでなく、普通の露出計として通常光を入射光でも反射光でも計ることが出来たから大変に便利であった。

 ミノルタフラッシュメーターは写真部に共用で7、8台あった。出版写真部の部長を辞めてから考古学の発掘関係の取材を引き受けることになり。発掘物をの撮影の質感表現にはストロボ2灯による反射傘を使うことが多くなって、自前のフラッシュメーターを買った。もう20年以上前のことだが、たしか8万数千円くらい払った記憶がある。

写真説明
ライカM4につけたMR露出計
ミノルタのフラッシュメーター