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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

スプリングカメラ
 昔から使わないカメラは買わない主義だった。使わないは写真を撮らないと言う意味である。写真を撮らないカメラを買うなんて“そんな馬鹿な”と言うのが多分一般の常識だろう。でもそのような常識が通らない人たち写真が好きな人のなかにはいるのだ。しかも決して少数ではない。

 カメラ愛好家だ。私の知人、友人にもカメラ好きはたくさんいいる。職業で写真を撮っていて、ご趣味はと聞かれて「趣味も写真です」という人がいる。一方「趣味はカメラです」言う人が私の周囲にいる。この連載も古いカメラのことを書いているのだから、お読みの方にもカメラ愛好家がたくさんいるに違いない。私の知人のプロ写真家で、私は写真機家ですとすまして言う人もいるのだから、写真機愛好家は決して少くない。

 私が関係しているあるアマチュア写真家の月例会のメンバーに大正生まれのTさんがいる。Tさんは写真を撮るのも熱心だが、クラシックカメラの蒐集に熱中している。月例会が終わった後の雑談でカメラの話になると止まらない。先日はコニカミノルタのカメラ・フィルムからの撤退が発表された直後だったからだろう、コニカやミノルタのカメラの話になった。

 話は小西六のパールからはじまった。Tさんは戦前、昭和13年、小西六本店発売のセミパールはもちろん。戦後間もなくに発売されたセミパール1型、そのあとの距離計が付くようになった1RS型、昭和三〇年代になって発売された距離計連動の3型、127フィルム使用の4型まで6台のセミパールを持っていますと言う。

 Tさんは小学生のときのトウゴウカメラが写真とのつきあい初めで、中学生の時に親父のカメラを借りて使った。大學に入ったとき両親にセミパールを買ってもらう。戦争がはじまって、大學時代あまり写真を楽しんで撮った記憶がない。学徒動員で召集を受けたときセミパールを持って出征した。外地には行かなかったので戦争はしなかった。

 終戦(敗戦)のどさくさで大事なセミパールを亡くしてしまった。戦争が終わって会社員になった。敗戦後の混乱時代がつづいていたが、数年経ってカメラが欲しくなった。このとき自分で買った最初のカメラがセミ・ミノルタだった。

 戦後間もなく発売されたのはセミ・ミノルタCだ。小西六のパールもセミ・ミノルタもスプリングカメラである。スプリングカメラと言ってもよほど年配の方でないと最近は通用しない。「春」専用のカメラかなどと言われかねない。蛇腹の先にレンズがあってレンズの繰り出し部分はタスキ状のばねで支えられる。レンズ部分を折りたたむと薄く小さくなるから携帯に便利だ。ボディとレンズ部分はスプリング=ばねで支えられる。

 スプリングカメラのSpringは同じつづりだけれども春ではない。ばねである。戦争中、敵国語=英語はいけないと言ってスプリングをわざわざ「発条」と置き換えて言った。戦争が終わってスプリングカメラの呼称がもどった。私たちの学生時代はスプリングを発条にひかっけて「春、発情」などと言ってふざけたことがある。二眼レフ全盛期を迎える前に戦後の日本ではスプリングカメラに人気があった。

 Tさんはスプリング・カメラが大好きだという。Tさんが戦後に買ったセミ・ミノルタには距離計はついていなかった。私のスプリングカメラ体験はバルダックスだった。この連載の11回にこのスプリングカメラのことを書いている。セミ判スプリングカメラはほとんどが75ミリレンズが付いている。距離計は付いていなかったからピント合わせには苦労をした。Tさんもピントがなかなか合わなくて人物を撮るときはスケール代わりに10センチごとに結び目をつけた凧糸を持ち歩いたとと言う。

 セミ・ミノルタのつぎにセミ・パールを買ったそうだ。セミパール1RSだ。セミ・パールは昭和25年になって距離計付きの1RSが発売になった。距離計つきと言っても距離計連動カメラではない。Tさんは発売になってから数年してこのセミ・パールを買った。セミ・ミノルタのほうはたしか戦前から距離計連動カメラは出ていたと思う。

 セミ判はご存じだと思うが、120フィルム=ブローニー判の半分のサイズ。ブローニー判は6センチ×9センチだから6センチ×4.5センチになる。フィルム1本で16枚写真が撮れる。

 Tさんはセミパールを6台持っていると言ったが、1RS以外は1980年以降に買った物だそうだ。スプリングカメラは中古カメラ店であまり人気がなくて、大変に安く買えるそうだ。だからセミ・パールだけでなくセミ・ミノルタも安く手にいれることが出来たそうである。

 Tさんは、はじめて自分で買ったカメラがセミ・ミノルタだったから、小西六も好きだがミノルタにはそれ以上の愛着を感じるという。話の途中にだれかが「ミノルタは以前は千代田光学でしたよね」と言ったら、Tさんは「千代田光学精工の前身は日独写真機商会、昔から神戸が地元で、六甲山にちなんでレンズにロッコールと名前を付けた」など大変に詳しい。マニアですね。

 コニカは19世紀に小西屋六兵衛商店が出来て20世紀には写真感光材料を製造を始める、六桜社という名前もありました。戦前は小西六本店、戦後は小西六写真工業であった。小西写真専門学校が現在の東京工芸大学である。

 ミノルタは1928年創業だ。カメラメーカーではは老舗である。コニカとミノルタが合併したのは2003年である。デジタル化に押されてフィルムが売れなくなるのはわかるが、カメラは銀塩カメラだけでなく、デジタルカメラがあるはずだ。

 1月19日の発表は衝撃的だった。11日にニコンが銀塩カメラからの撤退を発表した。これは予想されたことだったが、コニカミノルタはデジタル・銀塩を含めて3月で全部の写真関連事業を打ち切ると言うのだから驚いた。写真と関係を絶つと宣言したのだ。Tさんは「どんな事業も百年つづくと息が切れて来るものです」と達観しているようなことを言いながら、α-7 DIGITALを買おうと思っていたのに残念だという。

 スプリングカメラの話だ。Tさんは最近になって戦前に発売されたセミ・ミノルタを買った。ミノルタのスプリングカメラがコレクションに4台あるという。他にもスプリングカメラをコレクションしているというので、聞いてみると。

 昭和20年代にセミパールの1RSを買ってその後、マミヤシックスを買う。V型と言って6×6判と6×4.5判の兼用のカメラだ。昭和30年代になってセミパールの距離計連動カメラを買った後、セミイコンタを欲しくなり中古店を随分探したが手に入らなかった。それから40年以上経って、10年前にやっと手に入れる。

 千代田光学のセミも、小西六のセミもドイツのセミ・イコンタは真似して造られたカメラだった。セミイコンタとスーパーシックスはスプリングカメラなどあまり人気のないのに、いまだに値が下がらないそうだ。スーパーシックスは昨年手に入れたそうである。

 で、蒐集したスプリングカメラで写真は撮るのと聞くと、以前は買ってしばらくは数本フィルムを通したが、最近は買っても写真は撮らないという。分解して錆びや汚れを落とし、蛇腹を補修し組立て直してシャッター・ボタンを押す。このシャッターの音を聞くのと手触りの感触が、何とも言えない楽しみで快感なのだそうだ。

写真説明
セミパール
 昭和13年1938年発売。材質は鉄板製、蛇腹は黒革、レンズはヘキサー75mmF4.5が付いていた。距離計は付いていない。
セミ・ミノルタC 戦後のカメラ年間を見ると、昭和23年1948年発売となっている。昭和21年にA型が発売になっている。Tさんが戦後に買ったセミ・ミノルタは多分Cと思われる。ボディの材質はアルミダイカストとなっている。レンズはロッコール75mmF3.5、シャッターはコーナンラビット。
セミパール1RS 昭和25年発売、距離計が付いているから連動距離計のように見えるが単独距離計。距離を測って数字表示を読み、カメラ側の、距離目盛りを合わせる方式で在った。ボディは鉄板製、革張り。レンズはヘキサー75mmF4.5、シャッターはコニラビットと書いてある。