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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

グラフレックス・Graflex II
 紹介したグラフレックスカメラのマニュアル本は、使用法で手持ち撮影をすすめているようだと書いた。またこんなに大きなカメラを手持ち撮影するのは難しく慣れなければとても無理と思うとも書いた。

 ところが考えてみると、大型一眼レフカメラを手持ちで撮影することにはカメラの特性に関係する大変な意味がある。手持ち撮影は無理だから三脚を使用すればいいじゃあないかで済まない問題がある。一眼レフカメラはファインダーの映像を見ながら撮影できるので、人物ポートレイトなどの撮影でも正確に焦点が合った写真が撮れる。

 一眼レフカメラでピントを合わせるのには、ファインダーをのぞきながら、レンズの繰り出しノブに指をかけて、レンズのヘリコイドを回転あるいは繰り出しを動かすことでピントを合わせることになる。グラフレックスの場合は右手で焦点調節用ノブを回しながらピントを合わせ、一方、左手の親指はいつでもシャッターを押せるように指をかけている。

 35ミリ一眼レフカメラを使う人は、ほとんどがオート撮影で間に合うから、グラフレックスカメラでもピントを合わすのにそんな面倒なことがあるとは考えられないだろう。マニュアルフォーカスの時代は35ミリ一眼レフでもレンズに指をかけてピント合わせをやらなければいけなかった。一眼レフカメラでは、と言うよりはレフカメラではとことわった方が正確だが、レンズのヘリコイドに手をかけてしょっちゅうピントを合わせる必要があった。

 マニュアルフォーカスの一眼レフカメラをある程度使いこなしたことのある人は、一眼レフで人物撮影をするときは、画面の設定がすむと、レンズのヘリコイドから手を離し、ファインダーを見ながらカメラを構えた体を前後することでフォーカスを合わせる撮り方をやった経験があるはずだ。

 つまりカメラごと身体を前後することでピント合わせをする方法である。この方法ではレンズをそれほど絞り込まなくても、正確にピントを合わせることが出来た。言い方を変えると、これは実際体験から生まれた一眼レフ撮影技術であった。

 これは、グラフレックスのような大型カメラでも、身体を前後することでピントを合わせる撮影法は行われていた。この撮影法があるから4×5の大型カメラでも人物を撮影して正確なピントの写真が撮れた。

 グラフレックスカメラの使用法で、一眼レフカメラの良い点はピント合わせがやさしいことと、ファインダーが正確だから、フィルム画面一杯に対象を写すことが出来ることである。しかも縦画面、横画面の切り替えはフィルム面のレボルビング機構で簡単にできた。これは一眼レフのミラーが縦、横どちらにも応じられるほどの大きさをもっていることになる。さらにレンズを交換してもファインダーを交換する必要がないことだ。

 このあたり前回の記事とすこし重複するのだが、このグラフレックス・カメラには長焦点レンズが付いていた。WOLLENSAK・15inch・F/5.6RAPTAR・TELEPHOTE・LENZ(ウオーレンサック15インチF/5.6 ラプター・テレフォート)レンズだ。

 このレンズは15インチだからほぼ370ミリの焦点距離の望遠タイプ・レンズである。画角は35ミリカメラ用レンズに換算して100ミリくらいになる。このレンズは何回もテスト撮影をしたが、被写界深度が浅く、絞りをかなり絞ってもピントがなかなか合わず、使いこなすところまでいかなかった。

 さてこのグラフレックスカメラはグラフレックス社の社史を見ると、

P.B Graflex・D・4×5

は、1928年昭和3年発売と書いてある。日本のカメラ年鑑を調べてみると、

P.B Super D・Grafrex・4×5

は、1948年昭和23年発売となっている。
 昭和21年にグラフレックス シリーズBが発売されている。

 フォルマーのグラフレックスが1907年イーストマンコダック社に買収され1926年独立してグラフレックス社になるまでのあいだ、

1909年 R.B.オートグラフレックス
1910年 オートグラフレックス
1914年 オートグラフレックス ジュニア

以上がイーストマンコダックのカメラとして発売されていた。1928年にPBグラフレックスDが発売され、1946年、スーパーD(改良型)が発売されたと思われる。このカメラがどのような経緯で朝日出版写真部で買い入れたのかについてはわからない。

 筆者が入社したとき、すでにこのカメラは、500ミリ望遠レンズが付いて備品として写真部にあった。価格は昭和20年代後半、スピグラ新品が30万円近くで、グラフレックスは標準レンズ付きで大体同価格だったそうだ。

 昭和29年大学卒新入社員の給料が9000円の時代だから、若いサラリーマンの2年分くらいの給料ということになる。

 当時の正確な価格はわからないが500ミリニッコールレンズや15インチの交換レンズを含めると7、80万円を超える買い物であったはずである。

 出版写真部では、このカメラはスポーツ取材用(主として野球用)として使われていた。出版写真部が出来た昭和20年は敗戦直後で新規カメラの購入などとても考えられる時代ではなかった。昭和20年代の前半では機材購入予算もそれほどない時代であった。それにしては思い切って高価な1眼レフカメラを買ったものだと思う。

 その当時の出版局の事情はよくわからないのだが、アサヒグラフ、週刊朝日の復旧、朝日スポーツ、アサヒカメラの復刊、と出版が息を吹き返し拡大の一歩を踏み出した時代であったから、写真を担当する出版写真部にも勢いがあったからだと思う。

 出来たばかりの出版写真部には新聞の写真部とはひと味違う写真への考え方の違いもあったと思う。新聞各社がスピードグラフィックを使い始めたのにはアメリカの軍関係のカメラマンやプレス関係のカメラマンたちが競ってこのカメラを使っていた。これを見て報道写真はこれでなくては駄目だという思いこみがあった。毎日身辺に見本がいるのだから影響を受けるのは当然のことであった。

 ところがグラフレックスに関しては当時ほとんど誰も使っていなかった。戦前からのグラフレックスカメラを使っていた人、あるいはグラフレックスの存在を知っていた好事家マニアが出版写真部の先輩にいてスポーツ取材にいいのではと買ったものと思われる。

写真説明
(1)真横からグラフレックスカメラを見ると本当に大きいなあと思う。
(2)交換レンズ・ウオーレンサック15インチF5.6レンズ。
(3)フィルムホルダーはボタンを押すことでタテヨコ自由に回転する。