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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

グラフレックスとスピグラ 1
 真夏日がつづいた8月はじめ、神田小川町のオリンパスに用事があって出かけた。その後、神保町まで歩いて古本屋街をぶらぶらした。洋書がならんでいる店先で「GRAPHIC GRAFLEX PHOTOGRAPHY」という本を見つけた。1947年4月第8版、初版は1940年発行になっている。四百数十ページの大書で、表紙など少し痛んでいるが中はきれいだ。

 タイトルのCRAPHIC(グラフィック)は、戦後、日本の新聞社で使われたプレスカメラ、スピグラ、正式名はスピード・グラフィックのことである。一方GRAFLEX(グラフレックス)は同じグラフレックス社で製造された一眼レフカメラ、P・Bグラフレックスのことである。タイトルはスピードグラフィックおよび一眼レフカメラ、グラフレックスの写真ということになる。

 この古本の洋書は店頭に山積みされていて、800円の売価がついていた。内容は家に帰ってからゆっくりと拝見ということで即座に買った。この本に興味があったのは、スピグラならびにグラフレックスに興味があったからだ。小生この両方のカメラを持っている。

 この本は著者W・モーガンとH・レスター共著、副題は「大型カメラのためのマスターブック」となっている。スピグラとグラフレックスのとおりいっぺんのマニュアル書ではなく、撮影法などをニュースアンドプレス用写真、広告写真、学術科学写真、顕微鏡写真、航空写真、犯罪用写真など広範囲な部門にわけてたくさんの執筆者がこと細かに使い方を書いている。

 使用フィルムや現像法、特にシンクロ・フラッシュ撮影にはページが多く割かれている。さらに周辺の付属品、機材などを細かに書いてある。多分、アメリカでは戦争中、戦争後このカメラを使用した人はみんなこの本を買って教科書にしたのだろう。1940年から7年で8版と書かれているからベストセラーだったのだろう。

 日本のカメラ年鑑などを見るとスピード・グラフィックは、はじめイーストマン・コダックから明治45年に発売された。ペースメーカー・スピードグラフィックは戦後昭和30年発売と書いてある。スピグラにはいろいろな型があるからわかりにくいが、スピグラ全部を含めて30年発売はどうも大ざっぱすぎるようだ。

 鈴木八郎さんの「カメラ文化史」1974年刊を見ると、グラフレックスはアメリカのW・F・フォルマーの設計で1902年製造され1907年コダックから発売された。現在はシンガーのグラフレックス部門でスピグラとならんで発売されていると書いてある。1970年の本だ。

 イーストマン・コダック社とグラフレックス・カメラ社との関係がはっきりしなので、スピグラならびにグラフレックスの設計者W・F・フォルマーという人のことを調べたら、グラフレックス社のことがわかってきた。

 1890年フォルマー氏はシュウィング氏と共同でカメラ製造会社をつくっている。1900年代初めにスタジオカメラ、ハンドカメラやフィルムバックをタテヨコ動かせる(リボルビング)グラフレックスカメラを製造した。1905年これらのカメラに注目したイーストマンコダック社がこの会社を買収、フォルマーはコダック社の1部門としてたくさんの種類のグラフレックスカメラを製造、1912年にははじめてスピードグラフィックをつくっている。

 1926年フォーマー・グラフレックス社としてコダックを離れ独立。1946年までの間にP・B・グラフレックス、スーパーDグラフレックス、ペースメーカー・スピードグラフィック、センチュリーやクラウン・スピードグラフィックなどの名機をつくりだした。

 1950年代後半になると、小型カメラの流行、とくに35ミリ一眼レフカメラ隆盛に押されて流通会社に買収され、さらにグラフレックスを買収した会社が、シンガー・ミシンに買収されるという変遷を経てグラフレックスカメラ社は解体されてしまった。

 この本の第8版が刊行された戦後すぐの1947年(昭和22年)ころは、グラフレックス社の商売大繁盛の時代だった。第2次世界大戦中アメリカ軍のカメラマンはスピグラを使っていた。戦争中から昭和32年ころまでが最盛期だったと思われる。敗戦後、日本の新聞社はスピグラの高性能と占領軍や外国通信社に触発されてつかいはじめる。

 新聞の写真はスピグラが一般的になる。筆者は昭和30年1月鳩山内閣組閣のとき首相官邸に閣僚の記念撮影を撮りに行った。撮影に集まった各社のカメラマンの数をかぞえたら40人ほどいて、そのうち新聞社のカメラマンが30人、ほとんどが真新しいピッカピッカのスピグラを持っていたのを覚えている。

 何故そんなことに記憶があるかというと、入社1年の新米カメラマンだった筆者が持っていたのはぼろぼろのスピグラで、うらやましいと思った。入社して3年間ほど詳細なメモをとっていたからこのことはよく覚えている。

 スピグラ全盛期はそれから10年経たずに終わる。新聞社のカメラマンがスピグラを使っていたのは昭和30年代東京オリンピックまでだった。毎日新聞が最初に大型カメラ、スピグラから小型35ミリカメラ、ニコンFに切り替えた。これに右へならえをするように全部の新聞社のカメラが小型化した。

 この連載がはじまった2回目(もう9年何ヶ月前の記事だ)にスピグラのことを書いた。あのときはカメラの値段のことを書いたので、スピグラを使用した経験や、機能についてはあまり書かなかった。もう何十年も使ったことのないカメラだが、改めてスピグラとグラフレックスのことを書こうと思う。

 今、筆者が持っているカメラのなかに、R.B.グラフレックスが1台とスピードグラフィックが2台ある。なぜこんな大型カメラを持っているのかというと。この3台のカメラはどれもが小生が在籍していた朝日新聞出版写真部の備品カメラであった。

 2台のスピグラのうち古い方のカメラは入社して1年以上経って貸与されたカメラ。新しい型のスピグラは入社して6、7年たって先輩カメラマンから順ぐりに回ってきた。そのあと10年近く使用した。

 R.B.グラフレックスの方は、通常は望遠レンズが付けられて野球などのスポーツ取材に使われていた。確かニッコールの500ミリ望遠レンズを付けてつかっていた。入社してからずっとカメラ機材には貪欲とおもわれるほど興味があって、仕事が暇なときは備え付けカメラのなかから、使ったことのない機材を持ち出してテスト撮影のようなことをやるのが楽しみだった。このグラフレックスも、望遠レンズを外して標準レンズをつけてはもちだして撮っていた。

 1970年代になって、時期ははっきり覚えていないのだが使用していない出版写真部の機材を処分することになった。それまでは整理する機材は出入りの資材部御用の業者に払い下げて処分をしていた。写真部員が今まで自分が使用したカメラだからといって、払い下げてもらう前例はなかった。

 そういうことはしてはいけないみたいな不文律があった。使っていた機材を自分のものにするなどは誤解を受ける行為ととられたし、使えないから処分するのであって、使えなくなったものを欲しがるなんてみっともないことだと思われていた。

 この備品処分のときは、たまたま部会でこの話が出て、自分が使っていたカメラを記念のために手に入れることは出来ないかと言い出す者がいて、当時の部長が動いてくれた。資材部や局長室の了解を得て、払い下げを受けた業者から値段をはっきりさせて改めて各自が買い取ることになった。

 しかしこの方法には問題があった。機材の払い下げには複数の業者が入札によって買い取るので、部員に機材を引き渡してくれることを了解承知してくれた業者が落札できるのか、また安い価格で落とせるかどうかわからないなどということだった。

 どうなるかと思っていたら、写真部に出入りしていたY商会が落札した。是非とも落札ということで高めの入札をしたのだろう。そのあとY商会が入札した価格と変わらない値段で部員に希望したカメラをわけてくれた。この業者の配慮が無ければ今手許にある3台のカメラは手に入らなかった。

 3台のカメラにいくら支払ったか覚えていないが、買ってから代金を工面するのに苦労した記憶があるから、ただ同然というような値段では無かったと思う。

 手に入れてしまうと、スピグラを使う機会はそうなかった。その時代には大型カメラでの取材、撮影にはジナーやリンホフを使うことが多くスピグラに出番はなかった。グラフレックスはそれでも面白がって使うことがあった。休みの日にグラフレックスを持ち出して風景写真を撮った。撮影した写真、4×5フィルムが溜まっていったが、自分で気に入る写真は撮れなかった。 (つづく)

写真説明
(1)グラフレックス社のカタログに使われていたスピグラとグラフレックスのイラスト
(2)グラフィック・グラフレックス・フォトグラフィー1947年第8版