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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

ライカ
 先月IPMの連載で35ミリレンズつきライカM4のことを書いた。しばらくご無沙汰していた友人2人から早速、君の記事間違っているよと連絡が入った。35ミリF1.4レンズはズミクロンではなくてズミルックスだよということである。これは確かに小生の間違い。ズミクロン(Summicron)ではなくズミルックス(Summilux)F1.4でした。

 世の中にはライカ狂いの人がたくさんいて。ことライカのこととなると大変にうるさい。ライカは魔物のような魅力を持っている。機械美の極致のような美しさに惹かれて何台ものライカを抱え、M4ボディだって何番台はいいが、何番以降はだめだとか、ライカもポルトガルで製造するようになって質が落ちたとか大変にうるさい。

 この友人2人もライカ狂を自認している人たちである。そんな間違いをしていてライカのことなど書くなということだろう。

 レンズを見ればわかることだった。写真を見てもLeitz Canada Summiluxとレンズ前面に白く刻印が入っている。新しいレンズを買った当座はレンズをなめ回すようにじっくりと刻印まで見るが、そのあとレンズに書かれている文字を眺めることはない。

 そう言われて思い出した。昭和40年代はじめ海外ではじめてライカを買ったとき、一緒に買った広角レンズはズミクロンのF2レンズであった。ボディはM4で、あのときはM2を買おうと思っていたがM4が発売されて1年くらい経ったときで、フィルム巻き戻しのクランクが斜めにつき、これは具合が良いですよと店の人に言われてM4を選んだ。

 このときズミルックスが欲しかったのだが、その店にズミルックスが無くてあきらめてF2・35ミリレンズを買ってきたのだった。このとき買ったズミクロンはあまり使わなかった。

 F1.4・35ミリを買おうと思い立った気持ちはその後も収まらず半年もしないうちに、ズミルックスF1.4を買った。そのときF2ズミクロンは引き取ってもらったか、誰かに譲ったかであった。

 ズミルックスを買ってしばらくは、周囲にだれもF1.4・35ミリレンズをもっている人はいなかった。やっかみからかズミクロン35ミリのほうがよいレンズだ。ズミクロンのF2開放とズミルックスF1.4を一絞り絞ったのではズミクロンのほうが解像度が良いとか、いろいろ言われたのだが、F1.4が手に入ったことで嬉々としてこの広角レンズに熱中していた。

 仕事で使うために買ったレンズだったからズミクロンもズミルックスもなかった。レンズの名前で仕事をしている感覚は全然無かった。と言うことでこの二つのレンズを混同してしまったともいえる。

 朝日新聞がまだ有楽町にあるころ、出版局は数寄屋橋沿いの社屋の6階にあった。6階のフロアーの一番奥に出版写真部の部屋があって、すぐ横にアサヒグラフの編集部とアサヒカメラの編集部の机が並んでいた。出版局の奥の入り口から入るとアサヒカメラの席の横を通ることになる。

 木村伊兵衛さんはアサヒカメラのソフアにいつも座っていた。昭和30年代の初め、伊兵衛さんはアサヒカメラの嘱託になられた。毎日出社される必要はなかったのに律儀なかたで仕事に行かれない日は毎日のように、アサヒカメラ編集部にきていられた。

 いまJPS会長の田沼武能さんも、お師匠さんだった伊兵衛さんが引きあわあせてくれた。アサヒカメラのおかげで、フリーのプロ写真家たちと知り合いになれた。ライカM3は木村さんに見せてもらった。凄いなーと思ったが、国内では高価なものであり、仕事はニコン、キヤノンで充分間に合っていたから手に入れようなどとは考えても見なかった。

 それからしばらくして、出版写真部の仲間たちは海外出張の機会にライカを買ってくるのが通例になったのだが、1971年まではドル円の為替相場は固定制で1ドル360円であった。そのうちにライカの日本代理店であったシュミット商会からライカを買うようになった。これは変動相場になってすこし安い感じがし始めたことも理由だった。

 しかし、そのきっかけがどうであったのか、木村伊兵衛さんがライカの日本代理店であったシュミット商会のマネージャー明石正己さんに朝日の出版写真部の人たちに自分と同じ値段で手に入るように計らって欲しいと言ってくれたと言う記憶と、同僚だった秋元啓一君がシュミットの明石さんと親しくしていてそのつながりで手に入るようになったという記憶が重なっている。

 もう何十年も前のことだから、そのあたりの経緯についてはっきりとは思いい出せない。先日、石川文洋さんがライカとのかかわりを書いている雑誌記事を見た。それまで文洋さんは香港でライカを買っていたが、ベトナムから帰国して1969年、朝日の出版写真部に入社する。そのころからシュミットの明石さんを通じてライカやライカのレンズを買ったと記している。いずれにしてもこのころから海外製品が買いやすくなったことが影響した。

 私がベトナム戦争の取材に行ったのは、1968年、解放軍のサイゴン都市攻勢があったときで、そのとき35ミリ付きライカを持って行った。シュミット・ルートでライカが手に入るようになるのは、どうやらその翌年1969年ころからのようだ。

 シュミットを通してライカが手に入るようになったのは、M4からはじまって、M5、M4−2までの時代であった。現在手許にあるライカM4は海外で買ってきたものか、、シュミットで買ったライカなのか、どれがどこで買ったかわからなくなっているのだが、シュミットからは確かM5を一番最初に買ったように思う。あるいは28ミリレンズだったかも知れない。

 ライカマニアならば御存知だと思うが、ライカボディのレンズを装着するバヨネットの台座上部の小さな穴、これは直径3ミリほどだがシュミット経由のものはアルファベットのSの字が、海外で購入のものにはLの字が入っていた。これで国内正規輸入品と海外で購入したものを区別出来た。

 海外で買ったものでも、シュミットで修理を頼んだりオーバーホールをしてもらうと全部S字マークに替わった。数台ある手持ちのライカを見ると現在あるL字マークはM4、1台だけだった。あとは全部S字マーク入りになっている。

 ライカM5は1971年発売だから、その翌年ころだったと思う。ライカM5を買って、このボディにF2.8エルマリート28ミリレンズをつけて使っていた時期があった。カメラに関しては新し好きだったから、M5発売と聞いて明石さんに無理を言って随分早く手に入れたと思う。

 M5にはTTL露出計が組み込まれていたが、あまり使用しなかった。私が買ったM5は28ミリレンズをつけると露出計は使えない仕組みになっていた。

 レンジファインダーカメラでは使うレンズは35ミリが主であったが、ライカのレンズが手に入りやすくなって、21ミリレンズ、28ミリレンズを買い使うようになった。

写真説明
ライカM5にエルマリット(Elumarit−M) f2.8/28m レンズをつけて使った時期があった。M5には35ミリレンズのファインダーが組み込まれていたが、28ミリレンズ用ファインダーは組み込まれていない。しかし28ミリ用ビューファインダーを付けずに使っていた。