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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

トライX〜はじめの頃の思い出話
 3ヶ月ほど前、2004年9月のことだが、銀座コダック・フォトサロンでトライX誕生50周年を記念して『モノクロームの記憶1954−2004』写真展が開かれた。小生の朝日新聞在社中に撮影した写真なども展示されていて、いろいろと昔の記憶が呼び覚まされ懐かしい写真展だった。

 トライXというのはコダックで製造しているモノクロフィルムのことである。写真をやっている人でトライXを知らない人はいないだろうと思っていたのだが、カラー写真のフィルムしか知らない人もいますよ、と言われてことわることにした。

 トライXはモノクロフィルムとしてもっとも著名で白黒フィルムの最優秀作品、多分一番売れたモノクロフィルム、白黒写真をやったことのある人ならば一度は使ったことのあるフィルムである。

 コダック・トライX誕生は1954年・昭和29年で、私が朝日新聞に入社した年である。朝日に入社したときから50年も経ったのかと思ったり、出版写真部で過ごした年月の出来事がトライXを通じて振り返らされた。それにしても同一製品がこんなに長く第一線で活躍したことは少ない。

 50年前、朝日新聞出版写真部に入社して取材をはじめたころは、まだトライXはつかわれていなかった。小型カメラのフィルムは、コダック・ダブルXがメインで使われていた。もちろんモノクロ写真の時代のことである。

 昭和29年、朝日新聞で発行していた雑誌でカラーページがあったのは、科学朝日にカラーグラビアが1ページ、と婦人朝日に2ページあっただけだ。どちらも月刊誌である。だからカラー撮影の取材はあまりなかった。

 新聞はもちろん雑誌も写真取材はほとんど全部が白黒・モノクロであった。モノクロ取材にどんなフィルムを使ったかというと、大型カメラ(手札サイズのフィルムや4×5)のパックフィルムは国産のサクラや富士と並行してコダックのダブルXフィルムが使われていた。

 小型カメラ用の35ミリフィルムはコダックのダブルX100フィート巻きと1000フィート巻きの映画用フイルムをマガジンに詰めて使った。入社以前は富士のネオパンSSをつかっていたと思う。35ミリ100フィート缶を使っていた記憶があるからアマチュアカメラマンはほとんどが国産フィルムを使っていたのだろう。

 朝日に入って、はじめてダブルXフィルムを使った。入社前使っていた35ミリカメラはオリンパス35で、このカメラはライカのフィルムマガジンを使うようになっていた。記憶がはっきりしないのだがオリンパスでも専用マガジンを発売していた。

 入社して使いはじめた小型カメラはライカとニコンS&キヤノン4sbであった。私はメインにキヤノンを使うようになっていたから、社から支給されたフィルムマガジンだけでは足りないので20個くらい新しいフィルムマガジンを買った。

 パトローネ入りのフィルムはあまり使わなかった。理由の一つは値段が高かったからだが、もう一つの理由は先輩たちからパトローネ入りはフィルム面に傷が付く、巻き上げが堅くて駄目だ。マガジンを使えと言われたからだ。たしかにその当時のパトローネは今のように上質の物はなかったと思う。

 現在は小型カメラを使うのにわざわざマガジンを使う人はいない。第一、マガジンは売っていない。マガジンなどと言って何のことかわからなくなっている。パトローネはドイツ語の小銃弾や薬莢からきた言葉でマガジンも同じような意味だから、小型カメラがマガジンやパトローネを使うことで自然にこの言葉が使われるようになったのだろう。

 金属製のマガジンはカメラに装填してフタをすると、二重になっている筒が回転して窓が開く、カメラ内部でフィルムが裸の状態になるからフィルムの巻き上げに抵抗がない。パトローネはケースの隙間を繊維性のテレンプでフィルムの両面から抑えて、ヒカリの漏れるのを防止しているからどうしても抵抗がかかる。

 入社してから2年間くらいはダブルXを使っていた。トライXが出回ってきた時期ははっきり覚えていないが昭和31年・1956年になってからだと思う。最初はトライXと言わなかった。フィルムの表示はXが三つ並んでXXXと表示されていて、スリーXという呼び方をしていた。

 トライXは高感度を売り物にしていたが、使い始めて高感度はあまり感じなかった。しかしラチチュード(寛容度)の広さには驚かされた。モノクロ写真を撮るのに露出計はあまり使われない時代だったが、かなりの露出オ−バー、露出アンダーに対しても許してくれる性質を持っていた。つまり露出の失敗をある程度カバーしてくれた。

 トライXは粒子が荒いと言う人がいたが、実際に使っていて粒状性の悪さを感じることはなかった。それだけでなく他のフィルムに比べてピントが良く見える性質のフィルムだった。現像済みフィルムをマクロスコープなどで拡大して見ると、粒子の角がとがっているので、ピントが良く見えるのだのだという説まであらわれたが、多分事実だったのだろう。

 トライXになって1000フィート巻のフィルムにはお目にかからなくなった。昭和30年代はほとんど100フィート巻きフィルムをマガジンに詰めて使った。昭和30年代になってカラー撮影の比率がどんどん増えていったが、30年代主流はモノクロフィルムだった。

 使用したモノクロフィルムは90%はトライXになった。現像液はD76を使っていた。途中でイルホードのフェニドン現像液が発表になってすぐ飛びついて使ったりしたが、まもなくまたD76現像液に戻った。

 現像液についてはコダックのマイクロドール現像液がよいとか、いろいろなことが言われたが私の場合はトライX・D76の組み合わせが朝日にいる間つづいた。朝日を止めて写真学校の講師になってからもこのコンビで使っていたから、50年近いお付き合いということになる。

 いつの頃からか、パトローネ入りのトライXを使うようになった。変動相場制になって、1ドル360円から120円台に変わった。日本の経済も少しづつ豊かになって、輸入フィルムが買いやすくなってきたからだろう。パトローネ入りを使うのが当たり前になるのは1972年以降のことだ。

 1964年昭和29年東京オリンピックの時、海外の通信社や雑誌のカメラマン、写真家が取材にやってきた。競技場のカメラマン席で並んで取材していて彼らが機関銃のようにシャッターを切り、足元にフィルムの空き箱とケースが山のように溜まるのを見て驚いた記憶がある。こんなことを贅沢などと言うと笑われてしまうが、そういう時代があったのだ。

 東京オリンピックの時、カラーフィルムはパトローネ入りの製品を使っていたが、モノクロはまだマガジンを使っていた。いつ頃からかカラーフィルムの空きパトローネにモノクロ・トライXを詰め直して使うようになった。

 100フィート巻きで36枚撮り17本分巻くことができた。出張などのときは2缶分くらいパトローネやマガジンに詰め替えなければならなかったから、これが結構大変で、急いで捲くものだから、手の指が突っ張ってけいれんを起こした。医者に診てもらったら腱鞘炎を起こしていますと言われた。

 トライX誕生のころを思い出していたら、なんともとりとめのない文章になってしまった。

 トライXというフィルムは誰もが使っていて、素晴らしいフィルムであるとか、これは凄いなどと言わなかったが、考えてみると優秀なフィルムだ。誰もがその恩恵に預かりながら、当たり前のことと思っていたが気がつて見ると50年経っていた。そういうフィルムである。

写真説明
美智子さんが現在の天皇と結婚されたのは昭和34年(1959年)だ。このころの取材ではすでにトライXが常用フィルムになっていた。4月10日ご成婚の日、五反田池田山の正田邸前に取材に行った。正田邸の周辺は報道陣と一目美智子さんを見ようとたくさんの人出でにぎわった。宮内庁からのお迎えの車に乗られるとき、雑踏とは似つかわしくない、嫁ぐ日の感傷的な空気が流れた。報道カメラマンの取材は正面にカメラマン席が出来てそこからの取材が中心だったが、この写真は正田邸塀沿いの群衆の中から撮影した。母親の富美子さんが目頭をおさえている写真はほかになかった。