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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

報道写真−1 はじめて新聞写真を撮ったカメラ
 報道写真という言葉は 、1933年伊奈信夫氏がフォトルポルタージュの訳語としてはじめて使ったというのが定説になっていたが、もう20年ほど前から、この言葉は伊奈信夫氏が作り出したものではなく以前から使われていた言葉を訳語として使ったのだろうと言われるようになった。1922年、朝日新聞に報道写真を募集するという記事が載っていたなどが明らかになってからだ。

 報道写真と言う言葉がつかわれていなくても、報道の目的で写真が使われたのは古いことだ。報道写真=ニュース写真とすれば、まず新聞写真がある。

 新聞で写真がはじめて使われたのは、朝日新聞の場合はちょうどいまから100年前、明治37年(1904年)日露戦争のときであった。

 朝日新聞の社史(1990年発行)を見ると、明治37年9月30日東京朝日第2面に初めての写真が掲載されたことが記されている。日露戦争に従軍していた上野岩太郎記者が撮影した遼陽戦の写真で「9月1日シャオシャンズイ高地占領後の光景」と説明がついていて、塹壕のふちに3人の日本兵が立ち、日章旗がみえている。

 写真を見てください。この新聞の保存版は見ることが出来なかった。古い紙面からのコピーのまたコピーという感じで鮮明とは言えないが、なんとなく戦場の様子がうかがえる。社史には「我が国で新聞にはじめて写真を刷りこむことに成功したのは報知である。明治37年正月号の紙面に女官や女優の顔写真を掲載して世間を驚かせた」と朝日以前に写真が使われたことを書いているが、ニュース写真の新聞掲載はこの写真が最初のものと思われる。

 これを見て驚くことの一つは、9月1日に撮影された写真が、印刷されるまでに1ヶ月かかっていることである。事件が起こってから数時間後(ときには数10分後)には紙面に印刷され写真が載る現在では考えられないことだ。

 社史はさらに「当時の写真機は三脚付きの組み立てカメラで、乾板を用いるのが普通だったが。上野はコダックのハンドカメラでロールフィルムをつかった。にわか仕込みの腕前だったので失敗も多かったが、このあともつぎつぎと戦場の写真を送ってきて紙面を飾った」と書いている。

 日露戦争では大本営写真班として11名が、また海軍省では光村写真館をふくめて委嘱カメラマンが数人、民間から写真師数人がこの戦争を撮影した。大本営写真班は四つ切りとキャビネの組み立てカメラを使ったという記録が残っている。

 戦争の写真も当時は大型組み立てカメラで撮影するのが普通であったようだ。朝日、上野岩太郎記者が使ったカメラは朝日社史によるとコダックのハンドカメラでロールフィルムを使用となっている。

 毎日新聞写真部にいた佐藤振寿さんが20年ほど以前、アサヒカメラに掲載した『暗箱カメラで写した日清・日露の戦争写真』という記事を見ると「日露戦争時、新聞社から特派された記者は、大本営写真班が四つ切り組み立て暗箱で撮影するのに対し機動性に富んだハンドカメラを使用した。撮影に使われたのはフォールディング・コダックカメラでレンズは固定焦点シャッターはT・B・1秒」と書いてある。

 このフォールディング・コダックカメラとはどのようなカメラだったのだろうか。調べてみると、このカメラは種類が多くてなかなか特定できない。フォールディング(Foldinng)は折り畳みの意味だから、蛇腹つき折り畳みカメラであることがわかる。

 クラシックカメラのカタログをみると、フォールディング・ポケット・コダック・カメラとなっていて、この年代この名称のカメラが1号フォールディング・ポケット・コダックから4号フォールディング・ポケット・コダックBまでと。

 1Aフォールディング・ポケット・コダックから3Aフォールディング・ポケット・コダックまでの2系列がある。さらに4Aフォールディング・コダックとポケットが名称からはずれているカメラがあって10代以上のカメラが並んでいる。

 1A型から4A型は明治40年以降に発売されているようだからこれを省くと。1号。2号、3号コダックのなかで、1号フォールディング・ポケット・コダック・明治31年発売と2号フォールディング・ポケット・コダック・モデルC・明治37年発売、3号フォールディング・ポケット・コダック・モデルC・明治37年発売がある。このなかのどれかが該当するようである。

 また3号フォールディング・ポケット・コダックにはC型があって、明治35年発売だから発売年代で上野記者の使用カメラに該当する可能性があるが、1号カメラより一回り大きく。重さも倍ほどになる。上野記者はカメラマンとして従軍したのではないから、重いカメラは避けたはずだ。使用フィルムが8センチ×105センチ、118フィルム使用で。重量も850グラムだ。

 一番可能性が高いのは1号カメラだと思われる。この1号フォールディング・ポケット・コダックは明治31年発売の初期のものと30年代後半のものとはでは大幅に変わっている。なお1号にはモデルBがあるがこれは形が大きく変わっているし、明治40年発売だから違うだろう。

 1号の前期型と後期モデルの写真を見て下さい。

 1号前期型はボディは木製だが、畳み込んだときの前ブタとバックはアルミ製である。明治31年、1899年発売だから19世紀最後にあらわれたカメラの1台といえる。蛇腹は赤皮製。6センチ×9センチ、105フィルム使用。ロールフィルム使用である。大きさは横幅9センチ、高さ17.4センチ、奥行きは撮影時12.5センチ、格納時4.4センチである。重量は400グラムとなっている。

 カメラカタログを見るとパンタグラフ式クラップ型スプリングカメラと書いてある。クラップ(clap)はピシャンと音を立てる、ピシャリと戸を閉めると言う意味だから、レンズ前板部分が勢いよく飛び出して撮影姿勢に入る感じを言っているのだろう。

 レンズは単玉レンズで焦点は固定焦点。焦点距離は105ミリ。シャッターはロータリー式シャッター。ファインダーはレンズ上部前板に固定された反射式のファインダーがついている。

 1号後期型の写真を見ると、レンズ前板部分が大きく変化している。シャッターがポケットオートマチックT.B.1となって外観が変わった。ファインダーに目玉が二つついているのは縦画面用と横画面用が並んでついているからである。大きさはレンズ部分が大きくなったためだろう奥行きが撮影時12.9ミリ、格納時4.9ミリと5ミリほど大きくなっている。重量は450グラム。

 革製の蛇腹の色がド派手な赤から茶色に変わった。このファインダー2眼の後期型は何年に発売されたかはっきりしない。明治38年とも言われているから。新聞写真第1号には使われていないかも知れない。

 フォールディング・ポケット・コダックカメラは2号では使用フィルムが9センチ×9センチの101フィルム使用にかわり大型になる。3号では8センチ×10.5センチの118フィルム使用で横幅11.4センチ、高さ19.6センチ重量825グラムとなる。

 明治41年発売の3Aフォールディング・ポケット・コダック・B4カメラでは使用フィルム122フィルム、8.5センチ×14センチと使用フィルムが変わる。フォールディング・ポケット・コダック・カメラは使用フィルムの種類が驚くほど多い。

 この時代のコダックのロールフィルムのサイズが101,105,118,122と型番がわかりにくい。調べて見ると、イーストマンコダックが整理番号をつけはじめたのは1895年からで、この年発売のフィルムに101をつけた。

 その後フィルムサイズに関係なく発売順に番号がつけられ1916年の130までつづく。1号フォールディング・ポケット・コダックは105フィルム使用である。イーストマン・コダック社はこの15年ほどの間に20種類以上のフィルムを発売したことになる。

  はじめて新聞に掲載された日露戦争の写真を見ると、撮影条件がどのようなものであったのか、などいろいろなことが考えられる。社史にはハンドカメラを使ったと断ってあるから、三脚は使わなかったと思われる。

 使用フィルムは当時は国産のロールフィルムはまだ発売されていないから、イーストマン・コダックのロールフィルムだ。フィルム感度は多分ISO・10から20位だったろう。第1号新聞写真をみても黒ずんでいて露出不足の写真のようだ。

写真説明
(1)1904年明治37年9月30日朝日新聞紙上にはじめて掲載された日露戦争の写真 
(2)朝日新聞掲載の日露戦争戦場写真を撮影したと思われる1号フォールディング・ポケット・コダック・カメラの前期型 
(3)1号フォールディング・ポケット・コダック・カメラの後期型