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第5回
細江英公

写真界の巨匠に、写真を学ぶ若い人がお話を聞くコーナーです。第5回は、細江英公先生です。

武井聡さん(以下武):先生のオリジナル技法であるルナロッサについてお伺いします。東京工芸大学芸術学部でルナロッサプリントワークショップを開催され、その技法の全てを公開されているそうですが、作品のオリジナリティーを考えたとき、それは意外というか、大変新鮮に感じられました。今後もさらに公開されていくおつもりなのでしょうか?
細江英公先生(以下細):そういう要望はあるでしょうね。技術というものは、どんなものでも公開して構わないんです。作品は技術じゃないんです。作品は作家そのものなんです。作家が、自分の表現のために必然的に技術というものを考え出す、もしくは既存の技術を採用する、その過程で何故その技法が必要であったかということが、一番大切なんです。でも多くの人はその技法そのものに大変興味があるわけで、特に学生の場合はそういうものを知ることによって、いつか将来その必要が出てきたときに使えばいいと、私は工芸大学の先生ですから、まず自分の学生に真っ先に教えて上げたいと思ったわけです。しかしながら、暗室を使って教えるものですから、何百人に一度に教えることは出来ませんから、人数を絞って実施しなければなりませんでした。さいわいにも皆さん大変喜んでもらい、これからも要望があれれば実施していきたいですね。外国でも、今年の夏にアメリカでルナロッサのワークショップを三回行いました。みんな感動して夜も寝ないで作業をしましてね、最後に展覧会をやったのですが素晴らしい作品が出来上がりましたよ。大変感動的でしたね。
 僕はこうやって外国でも教えていると思うんだけれど、最近の日本人の若者には感動がないね。外国で教えている方がはるかに楽しい。ストレートな感動があるんだよ。
武:リアクションがあるという事ですか?
細:そう。リアクションがある。それを自分のものにしようと意欲的でね、いろいろと工夫してみたりと楽しいんだよ。
武:単に受けとめるだけではなく創意工夫があるんですね。
細:もちろん。彼らは創意工夫が一番大切だということを知っているんだよね。日本人だって創意工夫の大切さくらい知っているんだけれど、小学校・中学校・高校とずっと来た教育の中で、本当に自分にしか作れないオリジナリティーのあるものを創意工夫してクリエイトするという教育が、まったくなされていないんだよ。与えられる知識を覚えるという教育しかされていないから、覚えた知識を武器として表現をしようとするようなときには、はなはだ下手なんだ。僕は教育そのものが間違っていると思うんだよ。そんな教育で21世紀をやっていけるかと思っている。今までは従順なサラリーマンとして会社に入って言われるままに仕事をする、いわゆる企業戦士として生きていけば幸せだと思っていたのだけれど、もうそんな時代ではないでしょう。教育の根本から変えていかなければならないと僕は思うんだよ。小学校から変えていかなきゃならないね。小学校高学年になればすぐに中学に入る勉強、中学では高校に入る勉強、高校では大学に入る勉強、そして大学にはいると気が抜けちゃう。とんでもないよ、これからが人生なんだからね。僕は偏差値なんて認めないよ。大学の仕組みとしてね、どうやって人間を峻別するかというのは大変難しい問題なんだ。特に写真のような場合は、写真が好きだから、写真が本当にやりたいからという人でも入れない場合が多い。逆にまあ写真でもやって見るかなという奴が、テストではいい点を取ってしまったりするんだ。写真に対する愛と尊敬というものに欠けているというのに、入ってしまう。僕はそれが本当に口惜しくてしょうがないんだ。面接でこの子いいなと思っても、英語が10点だったりすると入れられない。僕は英語が10点でも構わないと思うんだ。本当に必要ならその時に勉強するよ。でも、仕組みがそうなっているから入れられない。もしできるならね、来たい人は出来る限り入れてしまう、けれど大学の中の基準を通過しなければ、一切単位を上げないという方法にしたいね。今の日本の大学は出席さえしていれば卒業できてしまうでしょう。厳しいテストを何回も課して、どんどん落としていくようにする。そうするとね、先生の方が大変なんだよ。だけれど、本当はそうしなければいけないんじゃないかな。そうすると、卒業は難しくなるけれど、取った単位は例えば10年間は認めるという方法にして、ある程度単位を取ったら社会に出て、授業料を稼いでもう一回帰ってくるとか、そういう事が出来るようにしたいね。そして、授業料は単位に対して払う形にするんだ。
 僕は何もみんな大学に来る必要はないと思うんだ。大学というのはエリートを育てるところなんだからね。高卒で働いたほうが幸せな人生を送れる例はたくさんあると思う。その代わり、広く門を開いて均等に入る機会を与えるべきだと思う。試験の傾向と対策を勉強して入るためのみの知識を詰め込み、知恵のない子供がたくさんいるからね。
武:大学からでは遅いような気がします。
細:そうだね。例えば写真には視覚的な読み書きの能力が必要だけれど、今の子供は「読む」ことはテレビとかが普及しているから出来ても、「書く」ほうが出来ない。これは大変おかしな事だと思うんですよ。僕は小学生の内からそういう教育をするべきだと思う。芸術教育というと、音楽と美術だけだけれど、そこに写真を入れてね、視覚的な読み書きの能力を付けるべきだと思う。カメラというのはコミュニケーションの道具でもあるからね、「写真を撮らせて」という一言からコミュニケーションを教えることが出来る。
武:視覚言語に対しての能力が欠けたまま大人になってしまった場合、先生はどうするべきだと思われますか。
細:良い作品を見なさいと言いますね。感動する体験がないと、視覚能力は養われないからね。知識で見るのではなく心で見なければならないんだ。展覧会を見たりしていくうちに、自分の目は自然に養われていきますよ。最初は素朴な感動だったものが、どんどん深みのある読みこみが出来るようになっていくよ。
武:読む能力ではなく、書く能力の場合は、やはり作っていくことが大事なんでしょうか。
細:そうだね。個人の資質の問題もあるけれど、努力しないとダメだね。
武:では、努力しても僕には資質がないんだなと判断するのも、自分で行わなければならないのでしょうか。
細:そうだよ。誰も教えてくれないよ。自分で判断するんだ。

武:先生が過去の作品から選ばれたものを「フォトグラビュール」で限定発売するとお伺いしました。「フォトグラビュール」とはどういったものなのでしょう。
細:手刷りのグラビアです。今の大量生産に向いた方法ではなく、昔ながらの銅版画に近い技法で一枚一枚丁寧に刷り上げたもので、それを「フォトグラビュール」と呼ぶんです。アメリカにわずかにいるフォトグラビュールが出来る作家に依頼していましてね、現在進行中です。作品の選定から版作りまでは大体終わっていまして、僕もその工房に一週間泊まり込み実際に指示を出してきました。刷り方の圧力などで調子が変わってきますし、版も凹の深さで調子が変わってきます。非常に原始的なのですが、とても応用性の広い技法なんですよ。僕はグラビアが好きでしてね。今は日本ではほとんどグラビア印刷はありませんが、何とも言えない深みがありまして、僕の写真集はほとんどグラビアで出していたのですが、1970年代の終わり頃からグラビアの職人が日本にいなくなってきましてね、今ではほとんどオフセットになってしまいました。グラビア職人が一番残っているのはイタリアですね。あとはスイス、ドイツと言ったところでしょうか。
編:フォトグラビュールには、オリジナルプリントとは違った味わいのようなものがあるのでしょうか。
細:そうですね、グラビア特有の暖かいしっとりした感じがあります。やはりオリジナルにはかないませんが、値段的にもオリジナルに比べれば安くなりますからね。

武:写真を制作する上で、娯楽性と言いますか、人を楽しませるということは意識されますか。
細:自分が楽しければ人も楽しいだろうなと思ったりしてね。それが一致するときが一番うれしいし、一致しなければまだ力不足だなと思ったりしますよ。
武:最後の質問になってしまいましたが、細江先生にとって、写真とは何ですか?
細:写真は人生そのものというか、生きる力というか、そういうものように感じています。だから、僕は写真から離れることは出来ない。写真に対して僕は誠実でありたいと思っています。自分に誠実に自分の作品を作ろうとすれば、人のやったことをやったり、人の真似は出来ないよ。人の真似をしたら、人が傷つくかもしれないからね。僕の写真を見て誰もが傷つかない事を望みます。しかし、だからといってすごく楽しくなるとか、幸せにさせるとかそういうところまではまだいっていないからね。ただ、自分に対して誠実に、自分が思うものを作っていきたいと思っています。そして、その中から人が何かを得たり、力を受けたりと、何らかのプラスになるようなことがあれば、これほどうれしいことはないね。

編:最後に、写真を学んでいる若者に一言お願いします。
細:写真の可能性はとてもすばらしいからね、最後まで写真を信じなさい。それは写真への愛と尊敬へと変わっていく。そしてその愛と尊敬があれば、写真は決して君を裏切らないよ。
編:本当に長い間ありがとうございました。


インタビュアーの感想

 細江先生の知的かつ温厚な語り口は、緊張していた僕をすぐに安心させてくれ、イ ンタビューは落ち着いて行う事ができました。終始なごやかなムードの中、予定の時 間ぎりぎりまで真剣に写真について語ってくださった、その厚意が未だに印象に残っ ています。
 「写真を作るのは技術ではなく作家なんだよ」心に染みる言葉でした。これは最後 の質問である「細江先生にとっての写真とは何ですか」という問いに対する回答、「 人生だね」この言葉に繋がっていく台詞だと僕は受けとめました。作品を作るうえで は、その背景にある精神こそが重要であり、つまりは自分がどういう人間であるかと いう問題に行き着く。だからこそ作家(人間)が写真を作り、その時間軸に対する蓄 積は人生となる、そう解釈したのです。
 僕はそもそも、自分にとって「写真」とは何かという自問に対し、人間研鑽と写真 制作の二人三脚の歩みであると自答していましたが、今回のインタビューでは、その 点に於てある種の共感を覚え、その相手となっているのが自分の尊敬する写真家であ る事に微かな誇りを感じました。独り善がりな解釈や共感であると言われてしまえば それまでですが、それが間違っていない事を願うばかりです。
 今回のような貴重な体験の場を提供してくれた、IPMJの編集者の皆さんに感謝しま す。本当に有難うございました。

東京工芸大学 工学部 光工学科4年
武井 聡