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 長く広告写真や女性ポートレイトの世界で活躍され、最近も和紙などに乳剤を塗って写真をプリントされた作品を発表されたりとご活躍の藤井秀樹先生。40年近くにわたる先生の「写真人生」を熱く語っていただきます。

編集部(以下 編):ファッションデザイナーの山本寛斉さんなどとも交流がおありになったとか。
藤井秀樹先生(以下 藤):赤坂スタジオでマックスファクターをやっていた頃、ひとりの風変わりな人がよくスタジオへ遊びに来ていました。当時としては珍しく茶髪で、大きなコートというか、マントというか、それをまとって、かなり目立つ存在でした。で、何回目かの時に何をする人か聞いたんです。そしたら彼はファッションデザイナーだと答えました。それが、山本寛斉さんとの出会いでした。ちょうどテイジンから仕事の依頼があり、彼に参加してもらいました。そしたら、それが12ページくらいページをとって紹介されました。
 浅間へロケに行ったり川の中で撮ったりしました。浅間の鬼押し出しでは、岩を白く塗ってしまったりもしました。その後、あの辺りを空撮したカメラマンから、「一つだけ目立つ白い石があって困った」と言われたことがあり、あれを塗ったのは俺だと笑い話になったものです。当時はそんなことが許されたんですね。
 山本寛斉さんが衣装、ヘアメークが麻生恒二さん、アクセサリーデザイナーがヒコ・みずのさんというメンバーでロケに行ったりしたのですが、今考えても、よくできたなぁ、と思います。いったい誰が金出してたのかな。(笑)
 後からカレンダーにも売れたんですよ。何か、思い立ったらわぁっと行って、それでなんとかなってしまったんです。いまだに何だかよくわかりませんが。(笑)
 その仕事で、山本寛斉さんはデザイナーとして初めて大きなお金を手にし、その小切手を東海銀行へ持っていって、500円札の札束というものを味わったそうです。彼はその後それにとても恩義を感じていると、ファションショーの一番前の席へ招待してくれたり、海外でのファッションショーの撮影を頼まれたりしました。
 そういった経緯で山本寛斉さんや麻生恒二さんと様々な仕事をし、麻生恒二さんからはヘアーの写真集を頼まれたりもしました。そこでずいぶん面白い作品が沢山できました。ヘアメークの方がそういった写真集を作るというのは、当時としては大変珍しかったと思います。
 その写真は、後に、日本写真百年史という世界を巡回した写真展のポスターに使われたり、最近では、その写真にCGを加えて、オーチャードホールのマダムバタフライのポスターに使われたりしています。面白い写真というのは、いつまでも生きるものです。
編:楽しいエピソードを披露していただき、ありがとうございました。