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長谷正人
早稲田大学文学部教授


[39]ドゥルーズあるいは世界を信じることとしての映画

 ドゥルーズは、例によって唐突に、映画にはカトリック的な性質があるなどと言う。そして、映画は「信仰」と関係があるのだとも。映画と宗教的信仰? 一体それらに何の関係があると言うのだろう。常識的には受け入れがたい主張のように思える。映画は、光の痕跡の運動という徹底的に唯物論的なものであり、とても宗教的なものとは言えないのではないか。しかしここで問題となっている「信仰」とは、むろん通常の意味での宗教におけるような、神や死後の世界に関する観念的信仰などではないのだ。そうではなくそれは、いまここに(光として)ある現実世界そのものへの信仰のことなのである。たとえば風が吹いたり、花が花粉を飛ばしたり、虫が鳴いたり、人が喧嘩したり、死んだりするといった、そういう現実世界のさまざまな出来事を全て愛おしく思い、そのまま受け入れる能力のことなのだ。しかしドゥルーズによれば、現代ではそうやって現実世界を信じるという単純なことが極めて困難なことになっていると言う。「現代的な事実として、私たちはもはやこの世界を信じていない。私たちは自らに起きた出来事としての愛や死さえ、まるで私たちにあまり関わらないものであるかのように、信じていない。・・・人間と世界との絆は断たれてしまった。」(英訳版“Cinema2”Athlone Press 、p.171-2) だからこそ、ロッセリーニやドライヤーなどのカトリック系現代映画作家が、あえて世界への信仰を、私たち人間と世界との絆を映画化しなければならなかったのだ。つまり現代におけるある種の良い映画とは、人間と世界の絆を、愛や生命を信じることを私たちに促すものなのである。
 確かにこれは、一見あまりにもナイーブな主張かもしれない(むろん、ドゥルーズの主張を私がいささか単純化している点もある)。しかし私はどうしようもなく感動し、勇気づけられた気分になってしまうのだ。私自身いつも、現代社会の人々があまりにも「世界を信じる力」を失ってしまったことに戸惑い、悲しんでいるから。つまり私には、人々があまりにもシニカルな観念的態度で現実世界に接してしまっており(「どうせ世の中こんなものさ」)、そのため自らの存在感を充全に発揮できていないように思えてしかたがないのだ。実際、ほんの30年前と比べてさえ、シニシズムは私たちに深く浸透してしまっているのではないか。たとえば現代の私たちは誰も政治的運動や革命を信じなくなった。共産主義体制が崩壊するとともに、もはや何らかの政治的運動が理想的な世界をもたらすとは誰も信じられなくなってしまったから。また私たちは誰も音楽を信じなくなった。かつてディランやビートルズやコルトレーンが世界や私たちの精神を解放すると信じたような、あの熱い信仰を私たちはどうしても持てないでいるから(と言うより、そういう音楽が作れなくなったのだが)。また私たちは誰も自然を信じることができなくなってしまった。私たちは、野生の草を雑草などと呼んで伐採し、ガーデニングなどという人工庭園作りに精を出すばかりなのだから。こうしていまや私たちは、この世界を信じて、そのまま受け入れることができなくなっているのだ。従って全身全霊で何かを行って自己充足の喜びに浸るということもできなくなったのだ。とくに若者たちは深刻なように見える。彼らときたら互いに相手の意見や趣味を尊重することばかりに気を配って、決して自分の愛するものを信じ込んだり、その素晴らしさを他人に熱く訴えようとはしないのだ。本当はそうした自己保身的な態度など捨てて、何かに自分の存在を賭けることの方が、よほど彼らの存在を輝かせてくれるはずなのに (むろん他方で、そうしたシニシズムへの反動として来世や教祖への熱狂的信仰に逃げ込んだり、個人的趣味の自閉的世界に閉じこもったりする者たちがいるのも困った問題なのだが・・・)。こうして現代社会の人々は確かにドゥルーズの言うように、世界との絆を失い、自分の生命=存在の充実のさせ方を見失ってしまったように私には見える。
 だからこそ、先のドゥルーズの一見ナイーブな主張は私にとって貴重なのだ。そしてこの世界を信仰するものとしての映画という考え方もまた重要に思えるのだ。しかしそれはドゥルーズが主としてそこで取り上げたような、ロッセリーニやドライヤーといったヨーロッパのカトリック系作家たちだけの問題ではないと私は思う(むろんドゥルーズの場合もカトリック作家だけの問題と言っているわけではない。それは、登場人物の知覚と行動との絆が断ち切られた現代映画の問題の一部なのだ)。確かに私は、ロッセリーニの『神の道化師フランチェスコ』(1950年) で、粗末な服を纏っただけの聖フランチェスコの一団が、冷たい豪雨に打たれるのを神の恵みとして喜び、嬉々として雨中を裸足で走り回るとき、この世界をありのままに肯定する信仰の力のようなものをそこから受けとるし、ドライヤーの『奇跡』(1955 年) で、それまで狂人だったヨハネスが兄嫁のインガをあっさりと生き返らせる瞬間、やはり私は訳の分からない現実肯定の力を受けとってしまう。しかし、そのように主題として「宗教的信仰」が明確に描かれているときにだけ映画は「信仰」と関わっているわけではもちろんないだろう(ドゥルーズももちろん、そんなことを言っているわけでは全くない) 。むしろ私は、たとえばリュミエール兄弟が宗教などとは全く関係なく、さりげなく日常的光景を撮影した作品を見るときにも、この世界への強い信仰心を感じてしまうのだし、またハリウッドのミュージカル映画のような通俗ラヴロマンス映画を見るときにも、愛や生命を信じる勇気を与えられてしまうのだ。なぜか。なぜドライヤーのような敬虔なカトリシズムとは無縁な、このような何でもない類の映画が、このシニシズムの時代にあって私に世界を信じる力を与えてくれるのだろうか。すでに本書で論じたこととも重なるのだが、もう一度考えてみることにしよう。
 まず、リュミエール映画の方から考えよう。リュミエール兄弟が捉えたごく普通の日常的光景はどのようにして世界の「信仰」と関わっているのだろうか。それは映画カメラの原理的なメカニズムと関わっていると言えよう。これまで述べてきたように、映画カメラは、人間の眼のように自分の利害関心に応じて認識対象を取捨選択するのではなく、目前にある様々な事物の運動をまるごと等しく捉えてしまうのだった。だからたとえばリュミエール兄弟が『海水浴』や『港を出る小舟』で海の光景を捉えた場合も、カメラはどんな些細な波や水しぶきまでをも平等に捉えていた。そうやってカメラが、目前の海をまるごと受容するというところに、私たちはカメラの「信仰心」を感じとってしまうのである。いかなる自己保身とも関係なく、まるで聖フランチェスコが豪雨を天の互恵として受け入れるように、無防備に目前の世界を受容してしまうカメラの姿勢に私は感動するのである。つまりリュミエール兄弟は、いかなる芸術的野心とも関係なく、こうしたカメラの「信仰心」に応じて、様々な出来事にカメラを向けた。だから私は彼らの映画に、世界の「信仰」を強く感じるのだ。しかし現代の映画ときたらどうだろう。そこでは世界の光景がありのままに受容されることはほとんどなく、ひたすら特殊効果技術を生かした人工映像ばかりが跋扈しているだろう。ドラマの背景にある雲やビルや夕焼けなどは、全てCGによって監督の都合の良いように捏造されてしまう。それはまさに現代の映画が、カメラ的な「信仰心」を否定しようとしているということに他ならない。カメラのように世界を互恵として無防備に受容するよりも、監督が世界を自分の芸術的野心によって自己コントロール下に置こうとすること。それはまさに、現代の人々がもはやこの世界を信じることもできずに、シニカルに世界と向き合っていることを表してしまっていると言えよう。そのような状況があるからこそ、私にとってリュミエール映画はいっそう重要なのである。
 では次に、ハリウッド製のラヴロマンス映画の場合はどうだろか。SFXとまではいかないまでも、スタジオで人工的に構築された世界であるはずの古典的ハリウッド映画が、どのようにして反シニシズムとしての「世界信仰」と関わっているのだろうか。端的に言えば私は、ハリウッド映画においても、俳優たちの生き生きした自己充足的な振る舞いに、しばしばカメラ的「信仰」を感じてしまうのである。たとえば『赤ちゃん教育』( ハワード・ホークス、1938年) において、主役のケーリー・グラントとキャサリン・ヘップバーンが恐竜の標本用の骨をめぐって激しい口喧嘩の応酬や無意味な追いかけっこを延々と続けるとき、私は奇妙なことに、世界の「信仰心」をそこから感じてしまう。なぜならこの二人が、相手をまるごと信じているように、全身全霊で相手に言葉をぶつけあい、その言葉を互いにまるごと( フランチェスコにとっての豪雨のように嬉々として)受けとめ合っているからである。そうやって相手を信じて無防備にぶつかりあう二人の、幼児のように生き生きした姿を見ると(もちろん二人はこの喧嘩や追いかけっこによって愛し合っていることを全力で表現しているのだが)、私も世界や他者を信じる勇気を与えられた気分になるのだ。ところがシニシズム的現代においては、誰もこうした無防備な愛の場面を作ろうとはしない。むしろ現代では、こうして喧嘩をするヒーローとヒロインが機械仕掛けのように自動的に結ばれてしまうお馴染みの典型的ラヴ・ストーリーは、「お約束」などと言って馬鹿にされてしまうのである。つまり愛を信じられなくなったシニカルな現代人は、ラヴストーリーにも何らかの穿った観念的・心理的説明や複雑な状況設定を求めてしまう。従って当然、神経症的に男女が傷つけあうような暗い恋愛劇ばかりが作られることになる(たとえばウッディ・アレン)。そんなシニカルな恋愛劇を見て私はいっそう世界への「信仰心」を失うばかりだ。だからこそ私は、かつて能天気に作られた(能天気とはむろん世界を信じているということだ)ハリウッドの古典的なラヴ・コメディが現代においてはますます貴重だと思うのである。
 こうして私は、リュミエール映画にせよハリウッドの古典的映画にせよ、現代ではもはや作ることの困難な、ナイーブな古い映画によって信仰の力を与えられるわけだ。おそらく映画全盛期(30s〜50s)の人々もまた、同じように映画から信じる力を得ていたに違いない。すっかりパターン化された恋愛や決闘や救出の物語と分かっていながら、彼らが飽きることもなく繰り返し繰り返し映画館を訪れたのは、まさにその単純な物語のなかに彼らが世界の信仰を感じていたからだろう。ナイーブなまでに無防備に生きる登場人物たちに生きる勇気を与えられるのでなくて、誰があんな単純な物語を繰り返し見に行くだろうか。だから言わば、映画館とは20世紀の世俗的教会であり、映画鑑賞は礼拝行為だったのではないか。宗教なきあと、人々は映画を通じてかろうじて自分と世界との絆を保ってきたのではないか・・・。
 しかしむろん私は、そのような映画の世俗宗教性を手放しで称賛したいわけではない。そこには確かに、醜い現実から映画の世界に逃避して安心したいという人々の欲望も存在していただろう。その典型が映画オタクである。つまり映画オタクとは、映画から与えられた信仰を映画を信じるためだけに浪費してしまう人々のことなのだから( むろん私にとっても他人事ではないが)。たとえば聖フランチェスコやヘップバーンが幼児のように嬉々として走り回る姿を見たとき、私たちの身体の中から湧き出てくる喜びと勇気を、彼らはヘップバーンという女優の才能を称揚したり、ホークスという監督の天才ぶりを肯定したりすることの中に閉塞させてしまうのだ。そうではなく、本当にそのとき大事なのは、人間の力一杯の自己充足的運動への信仰を、自分にとっての「世界」や「他者」に振り向けることではないのか。ヘップバーンという役者がたんなるフィクションとしてでなく、現実の彼女の肉体を徹底的に酷使して獲得したあの美しさを、いかに自分の肉体へと導入するかを考えることではないのか。そういう意味では( 誤解を恐れずに言えば) 映画狂いの私にとって重要なのは、あくまで「世界」であって「映画」などではない。つまり古典的映画を見ることは、現実の私がこの世界をありのままに信じ、そしてこの世界の醜さと立ち向かう勇気を得るためのレッスンなのである。だから私は、いくら時代遅れと言われようとも、オタクと誤解されようとも、古典的な映画を見つづけるだろう・・・。