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長谷正人
千葉大学文学部社会学・映像文化論


[35]マキノ雅弘あるいはダンスする映画

 マキノ雅弘の映画は、しばしば論じにくいと言われる。映画作りに関する彼独特の作家性(主題や映像構成の特徴など)を探し出そうと、ジッと眼を凝らしてその映像の連なりを追いかけても、全てが「水のように」「サーッと流れて」(山根貞男〉しまって何も残らないからだ。例えば映画監督篠崎誠も、「さて、どういうふうにカット割っているのかなど覚えようと思うんだけど、いざ映画が始まっちゃうと、もうただ面白いので夢中で見ちゃう。見終わって『ああ面白かったな』というだけで、カットがどうなってたかって、全然印象に残らないぐらいですよね」と言っている(シンポジウム「成瀬巳喜男とマキノ雅弘」『三百人劇場映画講座V0L5&6 成瀬巳喜男とマキノ雅弘 静と動の情動(エモーション)記録&資料』三百人劇場、における発言。なお、山根貞男の発言も同じシンポジウムによる)。なるほど、確かにマキノの映画は、どこと言って特に突出した視覚的効果もない透明な画面と編集で構成されているため、私にもほとんど引っ掛かる所がない。彼の映像は、ひたすら物語を分かりやすく説明するためだけに奉仕しているように確かに見える。
 しかし私には、マキノ映画のカット割りに関して一つだけどうしても引っ掛かることがあるのだ。それは「カッティング・イン・アクション」(アクションつなぎ)に関してである。マキノは、ハリウッド映画的なこの技法を多用していたのだが、ときどきどうにもその使い方が少しだけ奇妙で目立ってしまう事があるのだ。では何が奇妙なのか。しかしその説明のためには、まず「カッティング・イン・アクション」についで復習しておく必要があるだろう。これはたとえば、登場人物が立ち上がるアクションをアップで捉えた一つのショットをそのアクションの途中で止めて(カットして)、その途中から立ち上がるところまでをもっと引いたロングショットで撮って繋げる、というような編集技法である。つまり同じアクションの途中でカッティングをしてしまうのだ。こうした画面の繋ぎ方をすると、観客はその一連の動作の連続性に眼を奪われて、「新しいショットが始まったようには思え」ず、「二つの画面がごく自然につながって」見えてしまう効果があるのである(蓮實重彦『映画からの解放一一小津安二郎「麦秋」を見る』河合教育文化研究所、66頁)。だから確かにこれは、マキノ雅弘に相応しい技法だと言えるだろう。つまり編集したということを観客に気付かせないように、映像の連続性(カット)を透明化してしまう技法なのだから。だからこそ彼はこの技法を多用したと思われる。ところが先述したように、マキノはこの技法をときどき奇妙なやり方で使って、その場面を際立たせてしまうのである。
 たとえば「次郎長三国志・次郎長と石松』(1953年)のなかで、投げ節お仲の久慈あさみがすっかり酔っぱらって宿に戻ってきて、上間の上がり口に倒れ込みながら三味線を右から左へと置く動作、続けて起き上がりかけたところで小泉博に声をかけられて驚いて、もう一度仰向けに倒れ込んでしまう動作、そしてその後で座りなおして小泉にもたれかかって行く動作、これら三つの動作にはいずれもカッティング・イン・アクションが使われている。しかしその繋ぎ方のタイミングが正確ではなく、むしろ同じ動作をだぶらせて編集してしまっているために、観客としてはまるで一瞬のうちに二度その動作が繰り返されたか、あるいはそのアクションがスローモーションによって一瞬引き延ばされたかのような奇妙な感覚を覚えるのである。これは単純な編集ミスだろうか。恐らくそうではあるまい。ここは、酔っぱらった久慈あさみが体を捩らせ、ふらふらと左右に揺れ動くことによって、彼女の色っぽさを強調する大事な見せ場なのだ。だからマキノは明らかに、わざと繋ぎ間違えることで、彼女の「揺れ動き」を、ゆったりとした踊りのような感じで見せたかったに違いない。つまりマキノはここで、映像の繋がりを透明化するために使われる技法である「カッティング・イン・アクション」を、慎ましいとは言え、ある種の視覚的効果のために使っていることになるだろう。
 同じような使い方は『佐平次捕物控・紫頭巾』(1949年)にも見られる。ここでは、この技法が登場人物の「振り返る」(回転する)動作において、とくに効果的に使われているのだ。たとえば、紫頭巾の阪東妻三郎が悪党役人たちの屋敷に忍び込み、その家来たちに取り囲まれながら、悪党の悪行の数々を並べ立てる口上を延々と語るシーン。最初は、話しながら何歩か前に進んではくるりと後ろに振り返るという動作が何度か繰り返されるのだが、話が佳境に入ると何と阪妻は、右に左にそれぞれ5回以上くるくると無意味に回り(!)始める。そして、この「くるくる回る」アクションにおいて、繋ぎ間違いの(?)カッティング・イン・アクションが繰り返し使用されるのだ。従ってもはやここでは、繋ぎ間違いと言うよりも、「くるくる回る」動作の時間を宙づり的に引き延ばし、まるでダンスのように印象的なアクションとして見せてしまう技法として使われていると言えるだろう。
 そう。マキノ映画における「カッティング・イン・アクション」とはこうして、役者たちの日常的な身振りをダンスに変貌させるための技法なのである。久慈あさみが左右に倒れ込む動作をダンスの横揺れのように優美に見せ、阪妻の振り返る動作の反復を激しいダンスの回転のように見せてしまうというわけだ。こうして、この技法はマキノ映画の大事な見せ場を作りだす。それはラヴシーンにおいて、最も典型的となる。マキノのラヴシーンとは必ず、男女がまるでダンスを踊るように、一方がくるりと回ると、それに息を合わせて他方がくるりと回るという実に独特のシーンなのである。
 たとえば『弥太郎笠・前編』(1952年)のラヴシーンを思い出してみよう。弥太郎の鶴田浩二が突然旅に出るために、恋仲になりかけている岸恵子に別れを告げるそのシーン。「どこ行くの?」/「どこへって、あてもございません」/「あてもないのに、なぜ居て下さらないの?」/「訳あってお暇申しますんで・・・、お雪さん、きっと二度のやっかい者にございます。そのときは・・・」/「そのときは?」/「そのときは・・・、よろしくお願い申します。御免なすって。」こうしてセリフだけ追えば、短い会話で互いの思いを上手く告げられないまま別れるという簡単なシーンにすぎないのだが、これを映像として見たときには、実に素晴らしい印象的なシーンなのである。言うまでもなく、独特の演出とカッティング・イン・アクションによって、二人がくるくると回ってダンスを踊っているように見える場面になっているからである。具体的に見てみよう。二人で黙って見つめ合った後、まず岸が「どこ行くの?」と言ってくるりと後ろ向きになる。しばらくその後ろ向きのまま会話が続くが、「そのときは?」のセリフの所で再びくるりと振り返って鶴田の方を向いて彼を見つめ直す。すると、その間に少しずつ岸に近づいていた鶴田は、岸がこちらを向いたタイミングに合わせてくるりと後ろ向きになり、そのまま何歩か下がって、再び振り返って岸の方を向いて「そのときはよろしくお願いします」と言ってお辞儀をする。その冷たい言葉を受けた岸が、がっかりして後ろを向くと、その隙に鶴田は「御免なすって」と言って素早く去り、その姿を追いかけるように岸はもう一度最後に、前の方に大きくくるりと振り向く。・・・これがダンスでなくて何だろう。二人は互いの呼吸に合わせて何度も何度も振り返る動作を繰り返しているのだから。しかもその「振り返る」アクションはすべて、遅延したカッティング・イン・アクションによって、微妙に誇張された「回転」動作のように見える。つまりこのラヴシーンは、まさに二人の男女が息を合わせて回転しあうダンスシーン(あるいは、この映画全体で出てくる盆踊りそのもの)として構成されているのである。そう言えば先の久慈あさみも小泉博の声に合わせて「揺れて=踊って」いたのだし、阪妻は周囲を取り囲んでぐるぐる回る悪党の家来たちと息を合わせて踊っていたのだった。
 ダンス映画としてのマキノ映画。そして間延びしたカッティング・イン・アクションによるその回転動作の誇張・・・。そう考えれば確かに、こうした技法を使っていない場合においても、マキノ映画はいつも、登場人物たちが、互いに呼吸を合わせてダンスを踊る映画だっただろう。オペレッタ映画の踊りでも、大勢の立ち回りでも、二人だけのラヴシーンでも、あるいはちょっとした会話シーンであっても、マキノ映画の魅力は人々がイキを合せて演じて(→踊って)いるところにあった(つまりお祭りのような映画なのだ)。ここに見たカッティング・イン・アクションは、そうしたマキノ的な「ダンス」の主題を集約的に表した場面だと言えよう。
 だが、そうだとしたら、なぜマキノ映画は水のようにサーッと流れて何も残らないなどと言われてしまうのだろうか。それは観客たちの眼が節穴だったからだろうか。いや、そんなことはあるまい。恐らく、ここにこそマキノ映画の魅力の秘密があるのだ。どういうことか。カッティング・イン・アクション。それは人間の連続的な身振りを、テクノロジーの断続性によって一瞬断ち切ってしまう技法であろう。しかもマキノはその断続性を、繋ぎ間違いによってさらに際立たせているのだった。だから普通ならば、そうした場面は、ドラマの感情的流れが機械のリズムによって鋭利に断ち切られる瞬間として目立つはずだろう。そしてそうだったとすれば、観客の誰もがドラマの流れと機械のリズムとの微妙なズレとしてこの場面に引っ掛かったに違いあるまい。ところがマキノ映画においては誰も引っ掛からなかった。なぜか。つまりマキノ映画にあっては、このテクノロジーの断続的リズムに合わせて登場人物が踊ることで、むしろドラマの情感が高まってしまうからである(鶴田と岸のダンスを思い出そう)。普通の映画のように、機械の断続的リズムが人間の情感のリズムを断ち切るのではなく、むしろ機械の単調なリズムがいっそう人間の「生」の喜びを高めてしまうという奇跡。それがマキノの天才的な透明さなのである。従ってここでは観客たちも、こうした映画的リズム(ダンス)にすっかり同調して、同じように「生」の高揚や情動を感じるしかないだろう。だから誰も、その不自然な断続性に引っ掛かることがないのだ。
 つまりマキノにあっては、まさにテクノロジーの単調なリズムが、人間の有機的な「生」のリズムを導き出すのである。群衆がお祭り騒ぎで楽しむことも、男女が恋の賭け引きをすることも、侍たちが命懸けで立ち会いをすることも、全てテクノロジーの断続的リズムによってこそドラマとして活気づけられているのだ。だからマキノは、映画のテクノロジー性が人間の有機的生命のリズムとけっして離反せず、むしろそれに同調しでしまうのだという本書の主張に直観的に気付いていたのだと言えよう・・・。