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長谷正人
千葉大学文学部社会学・映像文化論


[28]オルタナティヴ・シネマとしての物語映画

 これまでの映画理輪においてはほとんどの場合、「物語」(あるいは物語映画)は否定的に扱われてきた。とくにハリウッドが量産した古典的な物語映画は、観客を夢のような幻想世界に心理的に閉じ込めて、彼らの現実への批判能力を眠り込ませてしまうイデオロギー装置にすぎないと批判されるばかりだった。たとえばローラ・マルヴィ以来のフェミニズム的(かつ精神分析学的)な映画理論においてなら、ハリウッド映画の「物語」(や視線の構造)は、家父長制的な西欧近代杜会のイデオロギーをそのまま反映した男性中心主義的なものとして解読され、徹底的に批判されてきたわけだし、あるいはノエル・バーチやトム・ガニングらの初期映画をめぐる諸理論においても、初期映画があくまで不連続な映像の断片を観客に見世物として提示(presentation)する上映形態を取っているのに対して、「物語」映画はブルジョワ的な再現=表象(reprcsentation)モデルによって観客を物語世界へと心理的に沈潜させてしまうものとして批判されてきただろう。
 つまりいずれの理論にせよ、これらは、観客を物語のイリュージュニスティックな世界に無批判的に没入させてしまうような物語映画を批判し、逆に、映像が作りだす幻想世界に対して外在的で批評的な立場を観客が獲得することを可能とするような、もう一つ別の映画(オルタナティヴ・シネマ)を称揚しようとしてきたのだ。その別の映画の可能性を、古典的物語映画以降のゴダール、アッカーマン、デュラスといった、強い異化効果を持った前衛作品に求めるのがフェミニズム理論や精神分析学的理論だったとするなら、古典的物語映画以前の初期映画のような、視覚的効果を観客が身体感覚的に楽しむような見世物的な上映形態に求めるのがガニングらの理論だったということになろう。だから映画理論にあってはつねに、「物語」映画は、オルタナティヴ・シネマを称揚するための単なる批判的な参照点にされてきてしまったのである(以上のような諸理論に関しては、岩本憲児・武田潔・斉藤綾子編『新映画理論集成1 歴史/人種/ジェンダー』フィルム・アート社、1998年を参照のこと)。
 しかしここに一人だけ、全く違う視点からハリウッドの「物語」映画を論じだ人間がいる。ジル・ドゥルーズである。彼は、かの名著『映画 1 一運動イメージ』において、グリフィスのモンタージュについて論じる中で、(例によって唐突に)次のように述べているからだ(英語版 "Cinema1:The Movement - Image", University of Minnesota Press, p.31)。

「それ(アメリカ映画)を物語に従属するものとして批判するのは間違っている。それは全く逆なのだ。すなわち物語性の方が、このモンタージュという概念がら生じるものなのだから」

 つまりドゥルーズはここで、ハリウッド映画は映像を物語の幻想世界に従属させてなどいないと主張しているのである。物語映画は心理的な没入などとは関係ない。そうではなく、実際にはそこにはモンタージュという断片的映像の組み立て(有機的な結び付け)があるだけなのだ、と。では、このモンタージュとは何なのか。本当にそれは心理的な物語とは開係ないのか。それをここでは具体的に(ドゥルーズがら少しばかり離れて)、グリフィスが作った最初の映画、つまり物語映画の「起源」に位置するような作品と言うべき、『ドリーの冒険』(1908年)を題材にして考えてみることにしよう。なぜなら、この僅か7分ほどの単純な物語を持つ短編映画は、その後ハリウッドで発展していく長編物語映画の「原型」とでも言うべき構造を明確に示してくれているからだ。
 まず映画の冒頭では、ブルジョワ階級らしくきちんと盛装した若夫婦とその娘(ドリー)の一家が提示される。陽光が燦々と降り注ぐなか、森と川という豊かな自然に囲まれた邸宅の庭先で、彼らは休日を楽しんでいるらしい。その妻と娘だけが川辺に居るところへジプシーと思われる浮浪者的な男が近づいて、押売りをしようとしたり、バッグらしきものを掠め取ろうとして揉み合いになる。しかし、妻と娘の危機に気づいた夫が駆けつけて、ジプシーを腕力でたちまち撃退する。怒ったジプシーは、幌馬車で待つ妻の下に帰って来ると、事の次第を報告して何やら計画を練る。そして再びブルジョワ一家の所にやってくると、ちょっとした隙に娘のドリーを連れ去ってしまう。娘の不在に気づいた夫と使用人は、彼女を求めてあちこちを捜し回り、ついにジプシーの馬車の所までやってくる。しかし、既にジプシーはドリーを樽の中に隠してしまった後だったので、彼らは彼女を見つけ出すこともできずに帰っていく。そしてジプシーは猛スピードで馬車を出発させてしまう。ところが川に差しかかって馬車が傾いたとき、ドリーの入った樽は川へと落ちてしまう。気づかずに去ってしまう馬車。川の流れに延々と流されて行くばかり樽。ところが流されて行った先は、最初に提示されたブルジョワ一家の庭先らしき場所である。使用人の一人が流れてきた樽を引き上げて、主人が蓋を開けてみると中からドリーが出てくる。めでたしめでたし。
 以上が『ドリーの冒険』の物語である。もちろん、この物語が、ブルジョワ家族における家父長制的なイデオロギーを反映したものであり、そのイデオロギーを観客に注入する社会的な効果を持ったと(これまでの映画理論のように)批判することは不可能ではないだろう。つまり、家族という親密な共同体のすぐ外側には、ジプシーのような悪い奴がうようよしていて危険であり、だから家父長はゆめゆめ秩序維持のための警戒を怠ってはならないという教訓(イデオロギー)が、確かにこの物語からは読み取ることはできるのだから。だから確かにこの映画は、排他的な絆を作り上げようとしていた当時のブルジョワ家族が、その外部にいる異邦人に対する「妄想」として紡ぎあげていた、誘拐の恐怖という階級的な「物語」(イデオロギー)を反映し強化するものなのなのだ。休日にバトンミントらしき遊びをしようというのに、ネクタイをきちんと閉めて背広を着用したままの夫の姿や、白いワンピースのドレスやリボンで盛装した娘と妻の姿は、確かにそのブルジョワ家族の、過剰なまでの防衛心の表れとして見えてしまう。
 だが、それだけだろうか。この映画はそうしたブルジョワ家族の外部への恐怖心と家父長制的な秩序を再確認するための心理的な「物語」にすぎないのだろうか。そんなことはあるまい。たとえば私は、初めてこの映画を見たとき、そのような文化的な背景には全く気づくことなく、この物語映画を別のやり方で読み取り、かつ感動することができた。それはどのようにか。それこそ、ドゥルーズの言うモンタージュによってなのだ。つまりこの物語は、並行的な二つの系列のイメージを交互に提示する単純な構造から成っているのだろう。一方に盛装したブルジョワ家族のイメージがあり、他方に貧しい服装のジプシーの一家がある。そしてそれらが交互に提示される。つまり極めて原始的なかたちてあるとは言え、ここには確かにグリフィス的な並行モンタージュが出現していると言えるのだ。そして物語は、この二つの並行的な系列の間を、「ドリー」という娘(一項)が往復運動するという実にシンプルな構造を持っている。つまり私は、この構造のシンプルさにこそ感動したのだ。ブルジョワ家族の内面の立場に没入していって、彼らの恐怖心を心理的に経験するというよりも、私は明らかにこの二項対立の構造自体を外在的に楽しんだのである。
 だが、この二項対立(並行モンタージュ)だけでは、『ドリーの冒険』の面白さを説明し切れたことにはならないだろう。少なくとも、ドリー=樽が川を流れ始めたときにドリーの運命は一体どうなってしまうのだろうという緊張感が心の中に走らなかったとしたならば、あるいは樽が家族の下へと流れ着いたときにホッとした思いを感じないとしたならば、私たちがこの映画を「物語」として享受し、感動したとは言えないだろう。つまり、ここには間違いなく、ドリーの運命に関する「物語」から生じる緊張とその緩和という時間的な「律動」の構造もまた存在しているのである。リュミエール兄弟の映画を思い出してみよう。それは、例えば『水をかけられた撒水夫』のように、平和な平衡的状態(水撒き)から一時的な緊張状態(子供の悪戯)が訪れて、再び元の平行状態(水撒き)に戻るまでの「律動」を構造的な物語として描いたものだったはずだ。この『ドリーの冒険』もまた同じである。平和な家族の姿が最初に提示され、それが誘拐という一時的な緊張状態を経由して再び平和な状態に戻るまでの「律動」が、やはり明確な構造としてここには描かれている。それが映像的には、ドリー(=樽)の往復運動として描写されているわけである。
 こうして私たちは、『ドリーの冒険』という映画の「物語」に、ブルジョワジー/ジプシーという二項対立的な空間構造と、平衡/緊張/平衡という律動的な時間構造という二つの「構造」的側面を読み取ることができた。だからこの物語映画を楽しむ私たちは、けっしてブルジョワ家族の恐怖心という心理に沈潜することなく、映画の空間的・時間的な構造自体を外在的に楽しむことができるのである。そしてそれは恐らく、もっと長編化した物語映画に関しても言えるであろう。そうした長編物語は、この『ドリーの冒険』のような単純な物語構造をもっと複雑にし、最後の平衡状態の到来を引き延ばした結果にすぎないはずだ。たとえば西部劇ならば、それは白人/インディアンという二元論的構造と、共同体の秩序の平衡状態と緊張状態の間の往復運動が複雑化したものとして成り立っていると言えよう。だから西部劇に関しても(『ドリーの冒険』と同じように)、私たちはインディアンに対する白人の妄想的な恐怖に心理的に没入することないまま、その物語の構造を楽しむことができるのである。
 こうして私たちは、これまでの映画理論のように、物語映画の表象システムや心理性を否定するために、それ以外のところに脱イデオロギー的なオルタナティヴ・シネマを求めてしまう事は間違いだったと主張することができる。物語映画は確かにイデオロギー的な効果によって、インディアンやジプシーヘの観客の差別心を煽り立てる一定の効果を社会的に持ってはいただろう。しかし同時に物語映画は始めからそれ自体の中に、観客を外在的な位置に置くような脱イデオロギー的な「構造」をも同時に持っていたのだ。つまり物語映画の観客たちもまた、まるで初期映画やゴダールの作品を見るかのように、反・心理学的に映画を見ることができていたはずなのだ。だから私たちは、物語映画の心理的没入性を性急に批判して否定してしまう前に、そこに眠るこうした前衛的な可能性を引き出さなければならないだろう。要するに、物語映画の幻想的世界を批判するような別の映画(オルタナティヴ・シネマ)の可能性は、物語映画自体のなかに既に存在していたというのが私のここでの主張である。