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長谷正人
千葉大学文学部社会学・映像文化論


[25]バラージュ、クローズアップ、相貌的知覚

 ハンガリーの映画理論家ベラ・バラージュが、サイレント映画の魅力を、クローズアップによって捉えられた人間の顔の表情を中心に論じたことは良く知られているだろう(佐々木基一・高村宏訳『視覚的人間』、岩波文庫、及び佐々木基一訳『映画の理論』、学芸書林の二つの著書を参照せよ)。とりわけ彼は、女優アスタ・ニールセンの顔の表情の素晴らしさについて繰り返し言及し、称賛した。たとえばある映画の一場面においては、ニールセンの「引きつった恐怖の表情」から「歓喜の表情」へと徐々に変化していく「感情の有機的な発展史」が、クローズアップによって鮮やかに示されているのだという。

 「驚きの表情から、ゆっくりと徐々に、本当だろうか、と疑う気持ちと、まさかと思う期待と、控え目な悦びの全音階をへて、最後に幸福な歓喜の絶頂がやってくる。・・・目元や口元のすべての輪郭が一つ一つ解きほぐされ、緩み、そしてゆっくりと変わっていくのがわかる」(『視覚的人間』75頁)

 文学であれ絵画であれ他の芸術表現では、こうした顔の表情の微妙な変化をこれほどまでに詳細に捉えつくすことは不可能だろう(上の引用文の文章表現それ自体もむろんまた、実際の映画における描写には遥かに及ばないはずだ)。だからこそバラージュは、顔のクローズアップを、映画の魅力の中心に置くのだ。いや、顔だけではない。彼によれば、映画は人間以外のさまざまなものの持つ表情(それを彼は「相貌」と呼ぶ)もまた鮮やかに見せてくれるものなのだ。たとえば群衆の動きもまた映画においては「それ自体で生命を持」っているかのように「生き生きした相貌」で捉えられるのだし、生命を持たない「事物」でさえも、映画ではその「相貌」において輝くというのである(同書、101頁)。つまり映画カメラは、子供が薄暗がりの中の机やたんすやソファを「ぞっとするようなこわい顔をし、不思議な表情を作って何か物言いたげ」なものとして見てしまうのと同様に、様々な日常的事物から、その「生き生きした相貌」を引っ張り出してくることができる。だからこそ、たとえば「部屋のおなじみのドアが、突然ゆっくりと音もなく開き、しかも誰も入ってこない」という何でもないシーン(同書、127頁)が映画カメラに捉えられると、不思議な「相貌」によって観客たちの目に追り、彼らを恐怖によってゾッとさせることもできるのである。
 人間の顔や様々な事物などの、生き生きした表情=相貌を捉えるものとしての映画カメラ。しかし、以上のようなバラージュの映画論は確かに説得的なものだとはいえ、少しばかり奇妙に聞こえないだろうか。なぜなら常識的には、カメラは、人間の意図や感情などとは関係なく極めて客観的に、ありのままに、「自然主義的な正確さを持って」(『映画の理論』72頁)世界を捉えるものと考えられているからだ。実際に映画カメラは、それを操作するカメラマンがそのとき目前の自然的光景からどのような「相貌」を読み取っていたとしても、そんなことには全くお構いなしに、その光景を無感動な地理学的資料としてのみ記録し続ける機械なのではないか。たから人間の顔のクローズアップというのもまた、その顔の表面の皴や彫りや染みを顕微鏡のように科学的に「正確に」捉えたものにすぎないのではないのか。こう考えるのが普通だろう。ところがバラージュは全く反対に、カメラという無機的なテクノロジーこそが、普通の人間には感じ取ることができないような(事物や顔の)人間的で叙情的な「相貌」を捉えることができると主張するのだ。たとえば、彼は以下のように言う。

 「われわれの不完全な視力と弱い感受性が、事物の上にかぶせているヴェールを、映画のクローズ・アップが剥ぎとり、われわれに事物の顔を見せる・・・・」
 「われわれが事物の顔を認めるとき、そこにはちょうど、古代の神話が人間のイメージにのっとって神を創り、その中へ人間の魂を吹き込むときと全く同じような大型化が起る。この強力な、視覚による大型化の芸術的手段が、すなわち映画のクローズ・アップである」(共に『映画の理論』77頁)

 もしも事物に魂を吹き込み「大型化」するのが、鋭い詩的感受性を備えた画家(や子供)だというのならば、話は良く分かる。普通の人間が日常生活のなかで事物を「実用品や道具や目的のための手段」としてしか見なさないのに対して、芸術家がそうした実用性の「ヴェール」を取り払って、それまで隠されていた事物自体の生き生きした表情を見せてくれるというのならば・・・。しかしここでバラージュはそうではなく、芸術家よりもカメラという非人間的なテクノロジーの方が、そうした詩的感受性を持っていると主張している。カメラの「良いクローズアップ」こそが、「やさしい人間的な態度をも感じさせ」、「叙情的な働きをする」のだと(同書、72頁)、やはり何とも奇妙な主張だ。機械が人間以上に人間的だというこのバラージュの矛盾した議論を、私たちは一体どう考えれば良いのだろうか。

 ここで少し映画から離れて、この「相貌」の問題を別の角度から考えることにしよう。発達心理学者のウェルナーは、カメラではなく幼児が周囲の環境を知覚するときに感じ取ることのできる「相貌」性に注目している(鯨岡峻・浜田寿美男訳『発達心理学入門』ミネルヴァ書房)。彼が「相貌的知覚(physiognomic perception)」と名付けたこの知覚は、「主体と対象とが運動一情動的反応によって媒介され、強く一体化されている場合」に起きる「力動的な」「物の把握の仕方」であり(68頁)、具体的には子供が、首を振っている扇風機を見て「扇風機さん、イヤイヤしてる」と言ったり、街路樹が風に揺れて音を立てているのを聞いて「葉っぱが笑っている」と言ったりする場合がそれに当たるという。ただし彼によれば、ここで注意しなければならないのは、これが「擬人化(personification)」とは違うということである。つまり普通の大人たちが「扇風機がまるでイヤイヤしているようだ」と言うときのように、扇風機が機械的に回転運動していることを客観的に認識したうえでなお、それを人間的て叙情的な動きに譬えて楽しんでいる場合(=擬人化)とは違って、子供はそもそも「客観的な形といくつもの部分をもつ一つの客観的な形象」(69頁〕として事物を認識することなど全く経由せずに、いきなり情動的な「相貌」(イヤイヤ)そのものとしてのみ扇風機の運動を感じ取っているのである。それこそが、ウェルナーの言う「相貌的知覚」なのだ。言わば子供にとって、扇風機はひたすら「イヤイヤする」運動を繰り返すだけの奇妙な物体にすぎないのだと言えよう。
 だがこうしたウェルナーによる「相貌的知覚」と先のバラージュのカメラによる「相貌」性を結び付けて考えるとすると(そうしたいのだが)、私たちの議論はますます奇妙になってしまう。何しろそれでは、カメラは扇風機をただ「イヤイヤする」情動的な運動としてのみ記録していることになってしまうのだから。機械的な正確さで世界をありのままに記録しているはずのカメラが、力動的な「相貌」においてのみ世界を認識しているなどと言うことができるのだろうか。しかし、確かにそう言えるのである。なぜなら、カメラのようにありのままに世界を捉えてしまうことは、常識と反して、客観的な認識とは全く違うからである。たとえば扇風機の運動を客観的に知覚することは、それがどれだけ効果的に風を周囲に送っているかという観点からその機械的運動を正確に観察することでなければなるまい。しかしカメラは、回転する羽にあたる光の模様や首振りが見せる奇妙な表情まで、そこに起きている現象の全てを等価に捉えてしまう。そうした無差別的な知覚はまさに、科学的で客観的な認識など不可能にするしかあるまい。
 だがらむしろカメラは、ウェルナーの言う「相貌的知覚」を行っていると言った方が正しいのだ。実際彼は他のところで、音の知覚を例に取りつつ、「相貌的知覚」とは、それが何の音であるかを客観的に認識するより前に、それを聞き手自身の内部で実際に鳴り響いているものとして体験されてしまうこと、あるいは聞き手が「打ち鳴らされた鐘であるかのように音で満たされ」てしまうことだと説明している。これこそまさに、カメラが世界を捉えている状態そのものだとは言えないだろうか。何しろカメラは、眼の前に起きている出来事をそのまますべて受容し、「あたかも打ち鳴らされた鐘」のようにその出来事で自分自身を満たしてしまっているのだから。だから奇妙な言い方ではあるが、やはりカメラは、幼児のように情動的に世界を眺めている、もしくは世界に共鳴している、と言った方が正確なのだ。
 こうして私たちは最後に、アスク・ニールセンの顔のクローズアップの話にもう一度戻る事にしよう。ここでもやはりカメラは、ニールセンの顔を客観的になど捉えていなかったと言えよう。彼女の顔のどこに皴があり、どのような彫りがあり、どのようにそのとき表情が歪んでいるのか、カメラはそのようなことを科学的に記録していたわけではない。そうではなく、カメラは、彼女の顔の皴や彫りや皮膚の歪みなどが混じり合いつつ複合的に作りだしている、「相貌」としか言いようのない何かを情動的に捉えていたのである。だからこそそこでバラージュは、ニールセンの顔の表情が恐怖とも歓喜とも決定できないような微妙な変化の相において捉えられており、それがいかなる意味にも回収されない事を強調していたのだ。つまりそのときカメラは、ニールセンの「相貌」に、まさに「打ち鳴らされた鐘」のように満たされてしまっていたのだ。そして観客もまた、画面一杯に映し出された「相貌」をそのまま受け入れて、情動的に反応するだろう。むろんその映像を見る観客の中には、カメラを裏切ってニールセンの顔の骨格を科学的に計測する者や、その表情から恐怖の意味を解読する者もいるかもしれない。いや、必ずいるだろう。しかしそれは所詮、カメラのように情動的に世界を認識する才能もない、人間という貧しい存在がすることにすぎないのである・・・。