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長谷正人
千葉大学文学部社会学・映像文化論


[24]てんかん、無意志的記憶、そして映画

 てんかん患者の発作を一度だけ目撃したことがある。それはいまから15年程前、ある文化ホールで映画を見ている最中のことだった。映画の始まる直前に友人から紹介してもらったばかりだっだその大学生の男性は、私の二つほど右の座席に座って映画を見ていたのだが、映画のクライマックスでヒロインが毒杯をあおったまさにその瞬間に(話として出来すぎていて嫌なのだが)、突然てんかんの発作を起こしてしまった。それは私にとっては、まさに驚くべき光景だっだ。彼の身体はまるで棒切れのように硬直してしまっており、そのため(何の防備もないまま)床に向がって真っ直ぐにバタンと倒れると、そのまま全身を奇妙なリズムでヒクッ、ヒクッと痙攣させている。さっきまで人間らしいしなやかな身振りで歩いたり笑ったりしていたはずの彼の有機的身体は、いまやその人間らしさなどすっかり失って、まるで死にかけた昆虫のように物的に痙攣するばかりだ。いったい彼に何が起きてしまっだのだろう。さっぱり事情を飲み込めていない私としては(それがてんかんの発作だとはなかなか分からなかったのだ)、どう手助けして良いかも分からずに、ただ呆然とその不思議な「肉塊」の痙攣を眺めているしかなかった。
 だが正直に言って(彼には少しばかり申し訳ないのかもしれないのだが)、私はそのとき彼のことを心配しつつも同時に、身体の奥底から沸き上がって来るような奇妙な感動と言い表しようのない喜びの感情に充たされていた。なぜなら私は、硬直し痙攣する彼の身体に、「純粋な物質」性のようなものを触覚的に感じとったからだ。自分の意志や感情によるいかなるコントロールからも、はたまた文化や習慣による身振りの規律化からも逃れて、ただそこに「ごろっ」と転がって痙攣の律動によってのみ自らの「生」を充足させているような身体。これほどまでに純粋な「物質性」に還元されてしまった身体を私は見たことがなかった。「意識」や「理性」や「感情」といった人間的なうっとおしいものとは関係なく、ただの純枠な「肉塊」のままなお人間は生きられるのだ。そう考えると何だかうれしくてしかたがなかった(むろん病気としては端的に悲惨である以外の何の意味もないのだろうが)。
 こうしてこの「てんかん事件」は、そのとき見た映画(ダニエル・シュミットの傑作『ヴィオランタ』!なのだが)以上に私に強い印象を残すことになった。映画狂としては残念なことに、映画よりてんかん発作の方が私には感動的だったのだ。だが一方で、それが映画館で起こったことはむろん偶然であるにせよ、あのてんかん発作への感動はどこか深いところで私がある種の映画から受ける最も強い感動と関係しているのではないか、その後私はだんだんそう考えるようになった。たとえばロべール・ブレッソンの映画は、私がてんかん発作から享受したような、身体の純粋な「物質性」をやはり感じさてくれる。何もその登場人物の身体が、例のてんかん患者のように硬直したり痙攣したりしているというわけではむろんない。しかし彼らの行動(身振り)ときたら、すっかり「意志」や「感情」をはぎ取られてしまった、無表情で機械的なものでしかないだろう(実際ブレッソン監督自身、役者たちには「自動人形」のように感情を込めずに演技するように指示していると明言している)。その意味でブレッソン映画における身体も、行為(アクション)の水準であるとはいえ、やはり純粋な「物質性」に還元されていると言えるのだ。いやブレッソンだけではない。そうした「自動人形」のような物質的アクションは、キートンや小津から北野武にいたるまで、突出した映画作家の作品にしばしば見られるだろう。だから私は、てんかんにおける身体の問題を「映画」の問題として考えるのも、けっして不可能ではないと思う・・・。

 脳外科医として、1921年から長年「てんかん」の外科冶療にたずさわり、同時にそこから「人間の脳の働き」に関する神経生理学的な研究を行って多くの成果を挙げたワイルダー・ペンフィールドが、晩年(1975年)に書いた『脳と心の正体』(塚田裕三・山河宏訳、法政大学出版)は、そのニューサイエンス的で神秘主義的な最終結論(心=霊魂は存在する?)がいかにも怪しいとは思うものの、実に示唆に富んだ興味深い書物である。
 ペンフィールドはまず、てんかんの発作が、脳の神経細胞の一部に局部的におきる異常な放電が原因であることを説明する。そして彼によれば、その放電の起こる部位によって三つの違ったタイプの発作があると言うのだ。第一にもし放電が大脳皮質の感覚領か遅動領に起きた場合には、上部脳幹の「自動的な感覚運動機構(automatic scnsory-motormechanism)」に過度の興奮が伝えられ、結果的に患者の「意識」は正常に保たれたまま全身の「感覚」と「運動」が麻痺して痙攣が引き起こされてしまう。私が目撃した例も明らかに、この第一の、全身性の「大発作」であろう。これに対して、第二にもし異常放電が前部前頭葉や側頭葉に起きた場合には、患者は先の「感覚一運動機構」を全く正常に作動させたまま今度は「最高位の脳機構」(とペンフィールドが呼ぶ、「意識」に関わる脳の機構)を麻痺させてしまい、逆に「意識」や「心」の働きのみを失ってしまうのだ。従ってこの発作では患者は意識を失ったまま、日常的行動を行い続けてしまうことになる(「自動症」と呼ばれる)。たとえば散歩の途中の発作であれば、そのまま当てもなく歩き続けてしまうのだし、ピアノの練習中であればその曲をそのまましばらく自動的に(恐らく感情のこもっていない機械的な演奏だろうが)弾きつづけてしまう。こうした「自動症」的行動こそ、まさにブレッソンや小津の映画が表象していた「自動人形」の機械的で物質的な身振りに他なるまい。だからやはり、てんかんは映画と無関係なわけではなかったのだ。つまり、私が目撃したてんかん患者が、「感覚一運動機構」を麻痺させて身体を「物質化」させるような第一のタイプの発作だったとすると、ブレッソン映画の自動人形は、第二の、「意識」をやられて行動を「物質化」させてしまうようなタイプの発作とそっくりだったのである。
 以上のように、てんかん発作にせよブレッソン映面にせよ、両者はともに「意識」や「心」から切断された身体の純粋な「物質性」によって私を感動させたというわけだ。ところがペンフィールドは、奇妙なことに、私とは全く違う結論をこうしたてんかん研究から引き出している。彼は逆に、「心」は「身体」(「脳」を含む)におけるあらゆる神経生理学的メカニズムを越え出たところで「霊魂」のように機能していると言うのだから。これは全く奇妙であろう。何しろ彼の先の説明では、てんかんの「自動症」タイプにおいては、局部的な異常放電と言う物理的メカニズムによって「意識」や「心」(最高位の脳機構)の作動は止まっていたはずなのだがら。この事実は、「心」が「脳」の神経メカニズムの一部であることを示しているとしか思えない。これにもかかわらず、彼が、本当の「心」は、最高位の脳機構のさらに外側に超越的に存在していると項固に主張するのはなぜか。その説明のためには、ペンフィールドが実験によって人工的に作りだすことにまで成功した、第三のタイプのてんかんの症状を紹介しなければならないだろう。
 この「実験てんかん」は、ペンフィールドがてんかんの外科治療(発作を引き起こす部分の脳の切除)をするなかで発見したものである。この手術では、切除すべき病巣を厳密に確定するために、脳のさまざまな箇所に宙極を差し込んで弱い電流を流さなければならない。そして患者がいつもの発作と同じような症状を引き起こす箇所を見つけて、そこを切除するわけである(従って大脳半球を剥き出しにされた患者は、頭皮にのみ局部麻酔をされただけではっきり意識を保ったまま、脳に電流を流される度にどんな反応が自分の身体に起きたかを医師に報告するのである。脳自体は痛みを感じないので、確かにその意味で麻酔の必要はないのだが、それにしても何とも凄まじい手術光景だ)彼はこの手術において、患者が大脳皮質の「解釈領」に電気刺激を与えられると、「フラッシュバック」を経験をすることを発見した(1933年)。つまりその患者のすっかり忘却していたはずの過去の経験が、いまそこで再び起こったかのようになまなましくリアルに再現されるというのである(以下、いずれも60-51頁より引用)。たとえば、ある女牲は「自分が台所にいで、庭で遊んでいる小さな子供の声に耳をすましている」ように感じ、しかも「息子に危険をおよぼすかもしれない近所の物昔、たとえば走り過ぎる自動車の音」までがありありと聞こえてきたと言う。また別の患者は「楽器がある歌曲を奏でるのが聞こえ」、しかもペンフィールドが「確認のために何度が同じ箇所の刺激をくりかえしてみ」ると、「そのたびに彼女は同じ旋律を聞いた」と言う。いずれも何とも驚くべき魔術的光景だろう。ここでは、患者の記憶が自分の意志とは関係なく他人の手で人為的に蘇らせられているのだから。
 ところでペンフィールドによれば、ここで注意しなければならないのは、患者がそうした過去の記憶をありありと蘇らせながら、それを現実と錯覚することなく、つねに手術室にいることをも同時に意識し続けていたという事実。つまり、たとえ電流によって患者に物理的に「意識」を作りだしたとしても、なおその意識の外側で、そういう物理的プロセス自体を意識するような(そして実際には手術室にいることを感じるような)さらに高次の「心」が存在していたこと。それこそが、この実験の明らかにしたことだと言うのだ。しかし、そうだろうか。患者が手術室にいると感じ続けたのは、たんに彼の脳の(電流を流されたのとは)別の部分が、医師の顔や実験器具の物音を「感覚」として受容していたからではないのか。つまり私には、この実験は、患者の脳が二つの「感覚」(実険室にいる感覚とフラッシュバックの感覚)を並列して同時に処理することができるということを示しているとしか思えない。そこに高次の「心」を想定する必要など全くないのだ。
 いやそもそも、この実験が私たちに与える率直な印象は、超越的な「心」の存在という彼の主張とは全く反対のものだろう。何しろここでは、私たち人間の「心」や「意識」の重要な奥深い部分を占めるはずの「記憶」が、医師という他者によって全く自由自在に物理的に作りだされでしまっている。従ってむしろこの実験は、「身体」どころか「心」でさえも当人が「意図的」にはコントロールできない物理的現象であることを明らかにしてしまっている。だがらここでも、先の二つの「てんかん」のタイプと同じことが言えるのだ。先の二つがそれぞれ、身体全体の痙攣や身体行動の自動人形化によって「身体」の「物質化」を示していたとするなら、この第三のタイプのてんかんでは(実際に実験室でなくても自動的な記憶想起が症状として生じるらしい)、人間の記憶想起という心理的活動(「心」)が、人間らしさを失って「自動化」しているのである。人間の心理までもがコントロール不能な純粋な「物質」と化してしまうこと、この事実こそがここで私たちを戦慄させるのだ。そして私たちはさらに、この記憶の「自動化」現象が、既にプルーストの『失われた時を求めて』において「無意志的想起」として描写されていたことを思い出さずにはいられない。つまりペンフィールドは、プルーストが文学的に描写してみせていた事実(マドレーヌの香りによって外在的にコントロールされた自動的想起)を、極めて即物的に、脳の外科手術のなかで作りだしていたのである。

 こうして私たちは、てんかんが、人間の身体・行動・心理を自分にはコントロール不可能な「物質」や「自動現象」として発見させてくれる病理だということを確認した。そして実はここにおいて、映画とてんかんとのもう一つ深い関係があるように私には思えてならない・・・。さきに私たちは、ブレッソンや小津の映画の中に、てんかん的な振る舞いをする人間たち(自動人形)が描写されていることを確認した。しかし私は「てんかん」は、観客が映画を見るという行為それ自体において既に含まれているように思うのだ。何とも大胆な言い方で嫌になるのだが、映画を見るとは、私だちがいくぶんか「てんかん」患者のように世界を経験することではないのだろうか。なぜならそもそも(映画)カメラの特徴とは、それが人間の眼のように「脳」によってコントロールされることのない、「自動的」で「物質的」な視線によって世界を受容するところにあったのだから。とするならば、映画カメラとはてんかん化(自動化)した人間の眼だと、比喩的には言えるだろう。従って私たち観客にとっても、映画を見ることとは、てんかん化した眼を通して、いつもの人間的な経験世界を見直すことになるのではないのか。
 要するに、映画観客はみな少しばかりてんかん的である。自動的で硬直した視線で世界を眺めること。それが映画を見る幸福だ。どうしても私はそう考えざるを得ないのだ・・・。

*てんかんの医学的研究はさらに進み、治療方法も全く変化しでいるので、ここでのペンフィールドの研究による記述がいささか時代遅れのものであることに注意されたい。現代のてんかん研究及び治療に関しては、秋元波留夫監修『新版 てんかん』(日本文化科学社、1995年)を参照のこと。

*先月号[23]は、「つづく」になっていましたが、書き足して完結させたものをバックナンバーの方に載せてあります。