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長谷正人
千葉大学文学部社会学・映像文化論


[23]狂った?機械と初期喜劇映画

 リュミエール兄弟による世界初の映画上映会(1895年末〜1896年)にかけられた数々の作品群の中に、『水をかけられた撒水夫』という喜劇作品があることは、良く知られているだろう。一人の男が庭園らしき所でホースを使って水撒きをしている。彼に気づかれないように背後から一人の少年が近づくとホースを踏んで水を止めてしまう。男が驚いてホースの先をのぞき込んだ瞬間に少年が足を難すと水が勢い良く噴き出し、男はびしょ濡れになってしまう。少年の悪戯であることに気づいた男は、逃げ出す少年を追いかけて行って画面手前まで連れ戻し、お尻を叩いて折檻する。そして、少年が去って行くと再び水撒きを始める。たった1つのショットからなる短い(1分弱)作品だとはいえ、世界最初と言えるだろうこの喜劇映画について、アメリカの最も優れた映画研究者であるトム・ガニングは、そのサイレント・コメディ論の中で実に驚くべき議論を展開している("crazy Machines in the Garden of Forking Path: Mischief Gags and The Origins of American Film Comedy" in K. B. Karnick and H.Jenkins ( eds. ) "Classical Hollywood Comedy" Routledge. 1995)。何しろ彼は、この映画を「機械」の作動を中心にして展開されたギャグ映画だと主張するのだから。機械? ここには、工場もなければ自動車も大砲もないではないか。しかし、なるほどここには「ホース」があるだろう。つまり彼によればこの映画は、少年が「ホース」という「水撒き機械」の作動を一時中断させ、次の瞬間に爆発的に作動させたという、悪戯装置の映画として見ることができるのだ。だからこの映画の主役は、動機も曖昧なままに不器用に行為(演技)するばかりの悪戯小僧や撒水夫といった登場人物(役者)たちであるよりも、「ホース」という「狂った機械(crazy machine)」だということになる。
 むろんガニングのこの鋭い指摘の背景には、彼の初期映画に間関する持論がある。彼によれば初期映画(1895年から1907年くらいまで)の観客たちは、スクリーンに映し出される映画作品の内容(リュミエール作品なら、列車の到着の光景や丁場から帰宅する労働者たちの姿)を鑑賞することを楽しみに上映会に赴いたのではない。彼らは、シネマトグラフとかヴァイタグラフと名付けられた新奇な「機械」、つまり写真を運動する状態で見せてくれる「映写機」という魔術的な「機械」の作動を楽しみに上映会に行ったのである。だからこそ最初期のリュミエール映画の上映会では、初めにまずクランクを動かさないで幻灯写真としての静止映像を提示したのちに、おもむろにクランクを回転させてそれを動かしてみせるといった上映方法や、『塀の破壊』という映画(工夫たちが塀をハンマーで倒すと土煙が画面一杯に舞う作品)の時には、一度普通に上映したあとで映写機を逆回転させて壊れた塀が元に戻る光景を見せるといった上映方法がとられていた。これらはいずれも、映写機の滑らかな回転を一時的に「静止」させたり、「逆回転」させたりといったように、機械の「狂った」作動によって観客を楽しませる上映方法だったと言えよう。つまり『水をかけられた撒水夫』の中に見られる「ホース」の狂った作動は、映画上映会における映写機の「狂った」作動と全くパラレルなものだったのだ。言わば当時の映画観客は、上映方法の水準でも内容の水準でも、狂った機械の作動を楽しんでいたのである。
 狂った機械の作動によって観客を爆発的に笑わせてくれる初期の無声喜劇映画。事実ガニングは、リュミエール以降の初期喜劇映画作品のなかに、同じ「狂った機械」の主題が何度も何度も繰り返し現れている事実を具体的に示してくれる。たとえば、悪戯小僧たちが校長先生の寝室の電灯の代わりに小麦粉で一杯のガラスシリンダーを仕掛けたため、気づかずにやって来た校長が電灯をつけようとしてそれを持ち上げて「狂った機械」として彼を粉だらけにしてしまう映画(The School Master's Surprise, 1897)とか、やはり悪戯小僧が、母親の使っている洗濯物の絞り器を側で腰掛けて読書する父親の椅子に紐て結び付け、そのため母親が絞り器を回転させるとそれが「狂った機械」となって椅子を宙に浮かせてしまう映画(A Wrilging Good Joke, 1900)などだ。
 しかし私はこうしたガニングの主張に小さな違和感を感じてしまう。とくに、機械の作動が「狂っている」という言い方がどうしても気になって仕方がない。なぜなら私から見ると、静止したり暴発したりしたリュミエールの「水道ホース」も、椅子を宙に持ち上げてしまった「洗濯絞り機」も、いずれも機械としての作動のプロセスに異常な(狂った)ところは全く見当たらないからだ。むしろここでは、機械は全く「正常に」作動していると言うべきではないか。たとえば洗濯絞り機は、椅子という重い物体に結び付けられても変わらずに正確に作動したからこそ、強引に椅子を持ち上げて私たちを笑わせたのではないか。あるいは「ホース」の水が暴発したのも、踏みつけられても変わらずに水を同じ圧力で供給し続けた水道機械の正常な作動のためではないのか。つまり、これら初期喜劇映画の「機械」は実は「狂って」などいない(現実に私たちも、水撤きのときホースの先を押さえつけて水を勢いよく噴出させるだろう。これは全く正常な作動ではないか)。ただこれらにおいては、悪戯小僧たちが機械の正常な作動を別の馬鹿げた目的のために利用したにすぎない。だから、こうして正常に作動する機械を「狂った」という形容で呼んでしまったガニングは間違っていると思う。多分そこには、彼の「無秩序さ」や「爆発」へのロマンチックな憶れが反映しているように思えてならないのだ。
 そしてこの私の違和感は、ガニングが「古典的ハリウッド映画」とこうした初期の無声喜劇映画を比較して論じるときにいっそう高まる。彼によれば、「機械の(狂った)作動」によって観客の注目を惹こうとする「見世物」的な初期喜劇映画は、その後1907年から1950年代までのハリウッドを支配した「物語」映画、つまり観客が主人公の心理への感情移入を楽しみとするような映画の対極に位置するものだという。なるほど初期喜劇映画の特徴をガニングのように「狂った機械」の暴発によって観客を驚かす点(ヒッチコックの言う「サプライズ」)にあると考えれば、それは心理的な物語の直線的な進行を妨げてしまうものと言えるだろう。古典的ハリウッド映画の「物語」や「主人公の心理」は、映写機の逆回転やホースの狂った作動を捨て去って、初めて可能になったというわけだ。
 しかし私たちはいま、初期喜劇映画が機械の正常な作動によって成立していることを確認したはずだ。いやそれどころか「古典的ハリウッド映画」さえも機械の「正常な作動」によって成り立っているとは言えないだろうか。つまり、初期喜劇映画も物語映画も「機械の正常な作動」と言う意味で全く一致するのではないか。実際ドナルド・クラフトンは、物語とは「映画が始めから終わりまで進行していくための力をそれに与える燃料」だと言っている(Gunning の先の論文と同じ書物に入っている論文、Donald Clafton "Pie and Chase:Gag, Spectacle and Narrative in Slapstick Comedy" による。ただしClaftonはGunningと同様に、ギャグを物語の作動を迂回させ疎外してしまうものと捉えている)。逆に考えれば、古典的ハリウッド映画とは、物語という「燃料」によって結末に向かって正確に作動する「機械」なのだと言えよう(クラフトンはガソリンによって走る自動車という比喩を使っている)。だからたとえば、ハリウッドの恋愛喜劇映画は、あらゆる物語の構成要素が全て主人公の男女の結婚という結末を迎えるためだけに正確に機能してしまう「機械」でなくて何だろう。そこでは主人公の二人の行う激しい喧嘩やその他のあらゆる障害までもが全て、二人を結び付けるためにのみ実に正確にしかも優美に作動しているはずである(『赤ちゃん教育』なり『或る夜の出来事』なりを思い出せ)。だからこの意味では、古典的ハリウッド映画と初期無声喜劇映画の間には何の遠いもない。両者はともに「機械」の優美で正常な作動によって成立しているのだ。ただし、古典的ハリウッド映画は、初期映画のような「ホース」や「洗濯絞り機」のような顕在的な「機械」の代わりに、映画全体を一つの機械として作動させるような「物語」という燃料を発見したのである。そしてそれこそが、ガニングが初期映画を称揚しようとして行う主張からは導き出せない、古典的ハリウッド映画の驚くべき美しさだと思うのだ。