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長谷正人
千葉大学文学部社会学・映像文化論


[22]『啓蒙の弁証法』とジャンル映画

 アドルノとホルクハイマーはかの名著『啓蒙の弁証法』(原著1947年、以下は徳永恂訳・岩波書店を参照)のなかで、文化産業としてのハリウッド映画を、ジャズやラジオなどとともに大衆を野蛮状態へと頽落させてしまった空虚で無意味な文化として徹底的に批判している。この批判は、ヨーロッパ知識人がアメリカの大衆文化を正確に理解しようともせずに行った侮蔑的な批判として良く知られているだろう。ただし実際に本書を読んでみると、エルンスト・ルビッチやオーソン・ヴェルズといった映画監督からミッキー・ルーニーやベティ・デービスといった俳優たち、それにヘイズ・オフィス(ハリウッドの自主検閲機構)やD・ザナック(プロデューサー)といった裏方たちにいたるまで、広範なハリウッド映画人の名前がここでは具体的に言及されており、アメリカ亡命中の二人が「なま」でハリウッド映画の風土に触れたらしいというその感触のようなものは確かに伝わっては来る。だがやはり全体としては彼らの批判は、風評どおりどこが抽象的で単純なものであるのも事実だ。つまり彼らは、ハリウッド映画に関するそれなりの知識を現地で獲得しながらも、結局は知識人としての紋切り型の批判しかできなかったことになる。それはなぜだろうか。そこには何か、大衆文化としての映画を知識人が扱う場合に必ず起きてしまう根深い問題があるように私は思う・・・。
 アドルノとホルクハイマーによるハリウッド映画批判のポイントは、それが独創的な作家によって作られた個性豊かな「芸術作品」ではなく、映画工場(スタジオシステム)の中で大量生産された個性なき「娯楽製品」-商品にすぎないという事につきる。つまりここで彼らは、ハリウッドの諸作品が互いに「類似」したものばかりで、突出した独創的なものがないということを問題にしているのだ。だから本書のなかでは、「レディメードの紋切り型」、「同一性]、「画一性」、「統一的規格」、「反復」といった似たような形容が繰り返し使われることでハリウッド映画は批判されている。例えば、

 「ワーナー・ブラザース社の提供する映画であろうと、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー社の提供する映画であろうと、たいして代わり映えしない」(190頁)

 「レジャーの中では、人はプロダクションの提供する統一的規格に右へならえせざるを得ない」(191頁)

 「映画にしても、まったく例外なしに、どういう出だしで始まろうが、結局誰が賞められて誰が罰を受けるか、誰が忘れ去られることになるかは、だちどころに見てとれる」(192頁)

といった具合だ。
 つまりハリウッド映画は、ベルトコンベア式に大量生産される工業製品のように互いに似ていて、個性がないから駄目なのだ。確かに彼らのこの事実認識自体には誤りはない。実際に1930年代から1950年代まで、ハリウッドのスタジオシステムは、「西部劇」とか「ミュージカル」とか「伝記映画」といった様々な「ジャンル」名のもとに、ほとんど似たようなキャラクターの登場人物たちが活躍する同じ様な物語展開の作品を大量に作りだしていた。従ってそこでは、監督の特異な創造的個性などほとんど排除されしまうことになる。そうやって「ジャンル」や「シリーズ」によって作品をパターン化することが、一定の観客層を恒常的に確保し、品質管理的に作品の水準を一定以上のものにするなど、映画会社の経営を安定化させるのに貢献していたからである。だから例えば、RKOが製作するアステア=ロジャース主演のミュージカル映画といえば(監督が誰であろうと)、必ずその作品は"Boy meets girl, boy dances with girls, boy gets girls"(Rick Altman, "Cinema and Genre' in "Oxford Film Ilistory")という単純な構造を持った恋愛物語で、二人が巧みなダンスをする場面を見せ場とする映画として作られたのだ。むろん1940年代の映画観客も、そうしたいつものパターンの映画であることを充分承知して、それを期待しで映画館へ赴いていた(アステ=ロジャースの映画は当時最も人気のあった映画だ)。つまり「ジャンル」による作品の「画一化」こそが、映画における資本の論理と観客の欲望の両方を安定的に満足させていたのである。
 だが(繰り返しになるが)、ジャンル映画におけるこうした「メカニックな再生産可能の図式」は、アドルノとボルクハイマーにとっては文化の堕落した形態にすぎなかったり画一的な内容の作品が繰り返し作られることが、映画の内容を空洞化させ、観客の「楽しみ」も「倦怠へと硬化」させてしまっていると彼らは考えた。いつも同じような映画ばかり見せられている観客たちが本当に喜んでいるはずはないではないか。観客はただ機械的な習慣で映画館を訪れているだけであり、本当は退屈してしまっていると言うのだ(むろん彼ら自身が退屈したのだろう)。ではこの二人の知識人にとって、退屈ではない秀れた文化とはどういうものなのか。それは当然、作り手の「差異」や「個性」が表現されたものとなるだろう。もちろん、どんなに偉大な芸術家と言えどもそれぞれの時代の「様式」というものの拘束を受けてきたのは確かだ。だがらすぐれた芸術作品もまた同時代の作品と「類似」してはいる。しかし、芸術家はあくまで「洋式を、苦悩の混沌とした表現に逆らう壁として、否定的な真理として、自分たちの作品に取り入れようとした」(200頁)のであって、けっして「様式」に従属してきたわけではない。ましてやシェーンベルクやピカソのような現代芸術家は、「様式」に対して徹底的な不信さえ抱いている。つまりアドルノとホルクハイマーによれば、芸術が優れた表現を獲得するのは、同時代を拘束する「様式」(同一性)と対決し、それと「差異」を持つことにおいてなのだ。映画の場合ならオーソン・ウェルズ(ウェルズさえ彼らは個性のない作家としで批判してしまうのだが、これは完全な勇み足だろう)やチャップリンのように、ジャンル(=様式)からは逸脱してしまう「個性」が発揮されることにおいて初めて、作品に芸術としての価値が生まれるというわけだ。
 ハリウッド映画が「同一性」に陥ってしまうことを徹底的に批判し、「個性」や「差異」を持つことを強く希求すること。つまり単純化すれば、「画一性」から脱出して「差異」を求めること。実は、これは単なる「ハリウッド映画論」や「芸術論」の問題ではなく、アドルノとホルクハイマーが『啓蒙の弁証法』という書物の全体において提出した「文明論」における中核的論点そのものだと言えよう。この書物は、西欧社会の歴史を突き動かしてきた「合理化」(呪術からの解放)のプロセスを「啓蒙」と名付け、その「啓蒙」を、人間が厳しい自然の諸法則に運命的に支配されていた「野蛮」状態から抜け出し、自らの理性の力によって自然を支配する「文明」状態(自己の確立)を確立する運動として捉えている。このとき「画一性」や「同一性」は、人間が自然の猛威に従属するばかりでそれぞれの個性を発揮することもできないという意味で、起源の「野蛮」状態に位置すべきものなのだ。つまり「啓蒙」は、人間が互いに「画一的」である野蛮状態から、互いに「差異」を持った文明状態を目指す運動として捉えられている。ところが「啓蒙」の果てにある現代社会はと言えば、テクノロジーと官僚制の支配によって、人々の互いの「差異」など無視して彼らを全く「画一的」に扱ってしまっているだろう。つまり「同一性」から抜け出そうとすればするほど逆に新たな「同一性」の支配を作りだしてしまうというパラドックスを「啓蒙」の論理は孕んでいる。これが、『啓蒙の弁証法』の提出した最大の論点である(「何故に人類は、真に人間的な状態に踏み行っていく代わりに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか」(序文ix頁))。従って「画一的」なジャンル映画の問題もまた彼らにとっては、ユダヤ人が個性をはぎ取られた「画一的」なモノとして大量殺人されてしまうのと全く同様、「啓蒙」が20世紀になって陥ってしまった悲惨な「野蛮状態」(人間の「没個性化」)の現れの一つなのである。
 だが本当にそうだろうか。私はこの『啓蒙の弁証法』の主張に根本的な疑問を持たざるをえない。つまり私は、文化産業の(あるいは文明そのものの)「同一性」や「画一性」を否定すべき状態とは考えないからである。なぜなら生物としての人間は、まさに互いに「類似性」を持った動物(彼らは「類的存在」と呼ぶ)だからだ。だから自分たちが「同一性」に陥って個性を失うことを、まるで「死」に飲み込まれることであるかのように恐怖するアドルノとボルタハイマー(あるいは多くの西欧知識人)は全く奇妙なのだ。むしろ自分が他の人間たちと「同じ」でしかないことなど素直に肯定すれば良いではないか。なぜならそれは、けっして自分の存在理由を失うことではなく、人間としての自分の「存在」や「生命」を根本的に肯定することになるはずだからだ。
 従って当然のことながら、ハリウッド映画の「同一性」もまた否定されるべきではないと私は思う。同じパターンを持った作品を繰り返し楽しむことも、いま見たように、人間が自分の「生」の「同一性」を肯定することに必ずつながっでいるはずなのだから。しかもそれだけではない。「画一的」な映画を見ることは、「個性」的な芸術作品以上に、人間の根源的な「差異」性(単独性)に気づかせてくれるはずだからである。例えば、もしフレッド・アスチアが映画ごとに今く異なるキャラクター(個性)で予想外の物語を演じ続けたとして、私たち観客にとってそうした様々な「差異」を認識することに何程の意味があるのだろう。むしろそうした様々な「個性」こそ、しょせん文化の紋切り型が作りだす退屈な「パターン」の集成にすぎないのではないか。それよりも、いつも「類似」したキャラクターで「同じ」ような恋愛物語を演じるアステアが、ダンスや演技のたびごとに違った雰囲気や表情で見せてくれる、そのしなやかな身振りの微細な輝きの方が、よほど私たちに人間の絶対的な「固有性」や「単独性」を感受させてくれるはずである。つまり「同一」の物語やキャラクターが与えられることによって、かえって観客は物語のことを気にせずに、映像の微細な細部に宿る「固有性」に向けて自分の感性を自由に開いて行けるのだ。むろんそれは、観客が人間の「生」のそれぞれの「固有性」の美しさに気づくということでもあろう。だがアドルノとボルクハイマーをはじめとする西欧の陰鬱な知識人たちは、ジャンル映画が「画一的」であることは理解できても、映像の「細部」に輝いている、そうした「生」の固有性の充足ぶりに目を奪われることはけっしてないのである。