TopMenu



長谷正人
千葉大学文学部社会学・映像文化論


[18]アルコール先生あるいはチャップリンの機械恐怖症

 チャップリンの『モダン・タイムズ』(1936)の冒頭における、オートメーション式工場のベルトコンベアー作業のシーンは、あまりにも有名だろう。ベルトコンベアーに乗って後から後から運ばれて来る製品のネジを、ただひたすらスパナで締め続けるという単調作業に従事しているチャップリン。ベルトコンベアーのスピードが社長の命令で段々と上昇させられてしまった結果、いまや彼は、一瞬の間さえ、手を休めることは許されなくなる。顔のあたりに飛んできたハエを追い払うためにほんのわずか動作を中断しただけで、たくさんの製品が彼の前を通りすぎて行ってしまうほどだ。だから彼はその度に、あわててべルトコンベアーの先の方まで追いかけて行って、通りすぎてしまった製品のネジを素早く締めながら段々と持ち場に戻って来なければならない。そして、こうした厳しい作業を繰り返すうちに、チャップリンの身体には、そのネジを締める動作がすっかりと染みついてしまうことになる。そして休憩時間になってもこの機械的動作が止まらなくなり、完全に意思のコントロールを失って身振りを暴走させていくチャップリン。ついに彼は、スパナを使って同僚の鼻や通りがかりの女性の衣服のボタンまでを締めようとさえしてしまうのだ。
 本当に素晴らしいシーンだ。身体を痙攣させるように同じ身振りを素早く反復するチャップリンの見事な芸には脱帽するしかない。しかし私がここで問題にしたいのは、そうした彼の「芸」の問題ではなく、「思想」の問題である。チャップリンは、ここで何が主張したいのだろうか。もちろん私はもともと、映画から「思想」を読み取るなどという趣味を持ち合わせてはいない。しかしこのシーンにおいては、あるいはこの映画全体においては、彼があるメッセージを観客に伝達しようとしているのはあまりにも明白であり、私と言えども無視することは不可能だ。言うまでもなく、そのメッセージとは機械的労働に対する批判ということになる。オートメーション工場は、労働者たちを機械の部品のようにしか扱わない。そこでは人間は、スパナを締めるというような単調作業に従事させられることによって、彼自身の本来的な創造性も心の豊かさもすっかり失ってしまっている。つまりチャップリンがここで自らの機械的身振りによって戯画的に示そうとしているのは、工場における労働者たちの自己疎外的に惨めな状態なのである。反オートメーション主義者、反テーラー主義者としてのチャップリンがここにいるのだ。
 そしてここから、人間愛を訴え続けたヒューマニスト・チャップリンという評価もまた生まれることになる。ベラ・パラージュはそれを次のように分析する(佐々本甚一訳『映画の理論』学芸書林、31頁)。

 チャップリンの《不器用さ》のもつ深い意味は次の点にある。すなわち事物のいたずらとのたたかいは、その事物の悪魔的な性質を明らかにするばかりでなく、それによって、物が、彼とひとしい、場合によっては彼より有力な相手に転化する点にである。物はチャップリンをうち負かす。なぜなら、チャップリンは《物化されていない》ヒューマニティをもっているので、物のメカニックな性質に自らを同化させることができないからである。

 バラージュはここで、ローラー・スケートや回転ドアと格闘するチャップリンを論じているのであるが、この議論はむしろ、このベルトコンベアーのシーンに、より一層見事に合致するように思われる。チャップリンはここで、ベルトコンベアーの単調作業を「不器用」に行うことによって、「その事物の悪魔的な性質」を明らかにしていると言えよう。すなわち「悪魔的な」機械に「打ち負か」されることによって、逆に機械へと同化してしまわないような豊かな人間らしさが彼の中に存在することを彼は示したのである。反対に考えれば、「器用に」この作業をこなすためには、機械の「メカニックな性質」に自らの身体を「同化」させ「物化」させなければならない。それこそが彼が恐れるところの、人間的な豊かさを失って、機械のように単調な存在になってしまうことなのだ。だからたとえば、ネジ回しの動作に「同化してそれを反復しつづける労働者は、精神病院での治療を要する、機械文明の犠牲者として描かれているだろう。
 これがチャップリンによる機械批判の方法である。それは、同じ映画の「自動食事機械」のエピソードでも同じだ。効率良く労働者に食事をさせるために考案されたはずの自動機械の実験台となったチャップリンは、この機械に繰り返しスープをひっかけられ、ボルトを口に押し込まれ、ケーキを顔に押しつけられといった具合で、さっぱり食事することができない。従ってここでもチャップリンが「悪魔的な」機械に「うち負かされて」食事がうまくできなければできないほど、私たちは自由な食事というものの文化的豊かさを感じるだろう。こうして彼はいずれにせよ、機械から疎外された人間を喜劇的な身振りによって演じることで、ヒューマニティの在り処を逆説的に表現しているのだと言えよう。これが、チャップリンが観客に伝えているヒューマニズム「思想」である。
 しかし私は、このヒューマニズム思想にどうしても疑問を感じてしまう。本当に人間は機械に簡単に「打ち負かされてて」しまうほど弱い存在なのだろうか。あるいはヒューマニティというのは本当に、機械の単調なリズムから疎外される所にしか浮かび上がらないものなのだろうか。私は違うと思う。オートメーション工場に見られるような単調な動作の反復は、むしろヒューマニティの根源にあるものなのだ。いや、チャップリン自身がそれを私たちに教えてくれていたはずだ。彼が『モダン・タイムズ』より20年ほと前にデビューした頃、どんな映画を作り、どんな演技をしていたかを思い出してみよう。チャップリンは1914年にキーストン社からデビューし、続いて1915年から16年にかけてエッサネイ社に移って、多くの短編喜劇を作り始めたのだが、その頃から既に彼は世界中の人気者だった。日本でもすぐにその作品が輸入されると子供たちを中心に大人気となった。そして実に興味深いことなのだが、その頃チャップリンは日本では「アルコール先生」という愛称で親しまれていたのだ(たとえば、淀川長治『私のチャップリン』ちくま文庫、37〜8頁を参照せよ)。だから当時の作品の日本語タイトルのなかには、『アルコール先生ピアノの巻』(1914)とか『アルコール夜通し転宅』(1915)といったものが数多く含まれている。
 ではなぜチャップリンは、「アルコール先生」などという奇妙な愛称で呼ばれていたのだろうか。言うまでもなくそれは、彼のあの有名なアヒル歩き、手と足と胴体とがばらばらに痙攣しているかのような不思議な動きや、あたり構わぬ傍若無人の振る舞いが、まるで酔っぱらっているかのように見えたからだろう。酔っぱらったかのように、無意味に機械的に振る舞うチャップリンに人々は笑い転げた。つまり「アルコール先生」とは、人間を(人間らしくない)ロボット状態にまで転落させてしまうチャップリンへの愛称なのだ。実際、彼は意味なく他人に殴り掛かったかと思うと、逆に殴られて「物」のように遠くにすっ飛んで行ってしまう。だから彼は、ここでも『モダン・タイムズ』と同様、やはり「物化」された人間を演じていると言えよう。むろんここには、オートメーション作業も自動食事機械もない。しかしチャップリンは機械などなくとも、自発的に「物化」された状態に転落してみせている。彼の身体は、まるでオートメーション作業に「同化」したあげく暴走してしまったかのように、意味もなく単純な動作(歩く、殴る、ける等)を繰り返すのだから。
 しかし『モダン・タイムズ』とは反対に、アルコール先生時代の作品においては、「物化」して単純な動作を繰り返す人間は、病理的存在として否定的に表現されているわけではない。機械のリズムに同調できない「不器用な」部分に「人間らしさ」を暗示させるどころか、ここではむしろチャップリンがぎくしゃくとした機械的な身振りで振る舞うこと自体が「人間らしさ」の一部として肯定され、観客によって喜ばれてしまうのだ。人間が機械であることを容認してしまうこと。この「アルコール先生」的思想こそが、私の考える本当のヒューマニズムである。
 現実に私たちは、たとえばネジを締めるというような単調作業を何度も反復しているうちに、段々とそれに「はまって」しまうことがないだろうか。そのとき私たちの身体は意思によるコントロールなど越えたところで勝手に、その単純作業を自動的に繰り返しているはずだ。私たちはその瞬間、自由意思も理性も失って、言わばただの「機械」になっている。しかもそれは、『モダン・タイムズ』のチャップリンが考えるようにけっして病理的で不幸な状態だとは言いきれないはずだ(先のベルトコンベアーのシーンが病理的なのは、作業のスピードが工場長によって強制されていたからであって、機械自体のせいではないだろう)。単調作業にはまっているとき、私たちは身体の中に奇妙な快楽さえ感じるのだから。いや、そもそも私たち人間は、身体のなかにそのような「機械」的リズムと同調できる部分を抱え込んでいることを思い出そう。心臓の鼓動も、歩くことも、歯を磨くことも、ワープロのキーを叩くことさえも、人間の行動のほとんどは機械のように単調な反復動作でできているではないか。確かにこれらの行動は、人間の自由や創造性の発現とは言えないかもしれない。しかしこうした無意思的な反復動作なくしては、人間は生きていくことさえ不可能である。それらは生命の基盤なのだ。そして、こうした人間の「単純さ」を生きることの基盤として肯定することこそが、本当の意味で強いヒューマニズム思想になる。そう私は考える。
 そう考えると、先のベルトコンベアーのシーンも少し違った意味合いで見えてくる。監督としてのチャップリンは確かに、機械批判のためにこのシーンを撮ったと思われるのだが、演技者としてのチャップリンは、ネジ締めの作業を強迫的に反復しながら、どこかである身体的快楽を感じてしまっているかのように見えるからだ。私たち観客もまた、チャップリンの動作の単調なリズムに「同化」することで、このシーンに没入するのではないか。そしてそれこそが、この映画の魅力なのではないか。表面的な「機械批判」の裏側で、機械に「同化」し、機械を愛しているチャップリン。実際私たちは、彼が操っている映画カメラ(や映写機)が、フィルムを間歇的に次々と送り出していく「ベルト・コンベアー」そのものによってできていることを忘れてはならないだろう。彼がヒューマニズム思想を表現できるのも、あくまでこの「フィルム・コンベアー」工場を基盤にしてのことなのだ。