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長谷正人
千葉大学文学部社会学・映像文化論


[16]「どですかでん」あるいは機械的反復の魅惑

 黒沢明の『どですかでん』(1970)は、彼が初めて撮ったカラー作品として有名である。だが私は、昔見たこの映画のはとんどを記憶していない。ただある場面だけがどうしても気になって、私の頭を離れないのだ。この映画の中に、少しばかり頭の弱い鉄道狂の少年が出てくる。彼はいつも、ゴミの山の真ん中の道を「どですかでん」という言葉を繰り返してリズムをつけながら、自分が汽車になった気になって楽しげに走っている。「どですかでん」というこの奇妙な題名の基にもなっているこの鉄道少年の場面が、私はとても好きだった。いやそれだけでなく、妙に気になってもいた。黒沢明はなぜ頭の弱い少年を鉄道狂にしたのだろうか、そしてなぜ彼に「どですかでん」と言わせたのだろうか。それには実際のモデルがあったのか、それとも彼の想像力が作り上げた全くの架空の人物なのだろうか。これらを私は全く知らない。だが、たとえ想像の産物だとしても、私にはこの少年が実にリアルな存在であると思える。何しろ実際に私は、『どですかでん』と同様に知恵遅れにしか見えないような鉄道狂の少年を、日常生活のなかでもしばしば見掛けるからである。
 たとえば、私がよく利用するあるJR路線の電車内で、私は昼となく夜となく同じ一人の少年(10代後半くらいか)にしばしば出会う。行きにも帰りにも、同じ電車に乗り合わせてしまうこともある。リュックを背負っていつも車両から車両へと渡り歩き、電車がホームに近づくと、「まもなく××駅です」などと小さな声でアナウンスをしている。けっして他の客に迷惑をかけることもなく、というよりも全く眼中にないという感じで、ひたすら鉄道に乗っているという自分の快楽に没頭しているようだ。これまでに、いろいろな時間帯で会ったという私の経験から推測すると、彼は一日中この路線の電車に乗って終点と終点とを往復することを日課にしているに遠いない。彼にとっては言わば鉄道乗車が仕事なのだ。
 また私は、別の少年も知っている。先の路線と平行して走る別のJR路線の、ある駅のすぐ脇の鉄網ごしに、毎日駅を見つめて駅員の真似事をしている少年である。ただし、この駅を私が毎日のように利用していたのは、今から15年ほど前のことだ。実家から大学へ通うときにふと駅の外を見ると、必ずそこに一人立って(雨の日には傘までさして)駅員ごっこをしている彼を見ることができた。出来たばかりで駅前開発もなく、その周囲には畑と住宅しか見当たらない、人通りの全くない寂しい駅の風景のなかで、彼が「まもなく一番線に××行きの電車がまいります。危ないですから白線の内側まで下がってお待ち下さい」とアナウンスしたり、指差し確認のようなことをしたりする姿は異様なまでに際立っていた。だが、この前久し振りにその駅を通過するとき、ふとその少年が昔立っていた所に目をやると、何と15年過ぎて青年へと成長した同じ彼がそこにいるではないか。ということは、彼は15年間その駅で、電車到着の案内を孤独にし続けてきたことになる。何とも驚いてしまって、それで私はこの文章を書こうと思ったのだ。
 私は、こうした鉄道好きの知恵遅れ少年たちを、黒沢明にあやかって「どですかでん」と呼ぶことにしている。こうした「どですかでん」たちが、全国にあるいは世界にどれくらいいるのか私は全然知らない。頭脳や精神の病にかかった少年が、鉄道好きになりやすいかどうかの臨床データも全く持っていない。だが、私は絶対に世界中に「どですかでん」が大勢いることを固く信じている。知恵遅れの少年が鉄道狂になるというのが、私には実感として分かるような気がするからだ。そして私はそれがどうしても、私自身のような映画狂とどこかで通じているような気がしてならない。鉄道に乗る快楽と映画を見る快楽はどこか似ており、人を夢中にさせる何かを共有している・・・。映画狂は、知意遅れの鉄道少年のように日々映画館から映画館へと渡り歩いて生活している・・・。これが、私が黒沢明の『どですかでん』を見るたびに勝手に推測してしまうことなのだ。だが、本当だろうか。少し考えてみよう。
 鉄道に乗ることの快楽とは何だろうか。それは、単調な反復の快楽であると思う。私たちは何よりもそこで、ガターン、ゴトーンという風にしばしば言い表されるあの独特のリズムの単調な反復を身体に感じ続ける。そして眼を車外に向けても、そこには電信柱が同じリズムで過ぎ去ってゆくのを見ることができる。この機械的で規則的な運動のリズムこそが、鉄道に乗っているときに私たちが身体的に感じている感覚だと言えよう。これに対してかつての馬車旅行は、あくまでも馬の生理的なリズムに支配されていた。何よりも線路のような機械的で単調な直線の上を走るのではなく、曲がりくねった道沿いに、山あり谷ありの起伏のなかを走るのだから、そこには機械的な反復など無かった(この点については、シヴェルブシュ『鉄道旅行の歴史』(法政大学出版)の例えば32頁を参照せよ)。また逆に自動車、モノレール、飛行機などと いった鉄道以降の現代的輸送機関にも、あのガターン、ゴトーンといった機械的なリズムは存在しない。私たちは何かエレベーターに乗ったときのように宙吊りになったような感じで移動して行くばかりで、やはりここにも鉄道乗車的な反復の身体感覚は不在だろう(バスのエンジン作動に関する身体感覚は少し鉄道に近いかもしれないのだが)。だがら、ガターン、ゴトーン、あるいはドデスカデーン、ドデスカデーンという機械的反復は、鉄道乗車に独自なものと言えるだろう。だからこそ、ある種の人々(なぜ知恵遅れかは難しい問いだが)にとって鉄道は特権的な愛好の対象となるのだ。
 そして私たちは、この鉄道の機械的な反復のリズムを、必ずしも人間の生理的で有機的なリズムとは異なるものとして嫌悪しているわけではない。確かに車酔いする人にとっては、それは不快なリズムなのかもしれないが、このリズムの心地好さにはまって座ったまま眠ってしまう乗客がいるのもまた事実であろう。いや多くの人々は、鉄道に乗りながら眠ることの心地好さを経験的に知っているに違いない。むしろこの機械的な反復は、人間にとって快楽なのだ。フロイトも次のように言っている(「性理論三編」中山元編訳『エロス論集』ちくま学芸文庫、136−7頁)

 身体にリズミカルに機械的な振動が加えられた場合に、性的な興奮が生み出されることを指摘しておく必要がある。(中略)だから子供が揺さぶられたり、放り上げられたりするような受動的な運動を特に好み、こうした運動を何度も繰り返して欲しがるのは、ある種の機械的な身体の振動が、決感を生み出すことの証拠である。むずかる幼児を寝かしつけるためには、揺り動かすのが効果的であることは、よく知られている。車に乗ったり、また大きくなってからは汽車に乗って揺り動かされることは、年長の子供を魅了するのである。

 だから、朝から晩まで電車に乗り続ける最初の「どですかでん」少年は、その機械的振動に快楽を感じたからこそそうしていたに違いない。単調に揺られつづける快楽こそが、恐らく彼の精神的安定に必要とされているのだ。そして彼がアナウンスの声を真似したがるのも、駅のアナウンスがひたずら抑揚を欠いた単調な繰り返しであるからだろう。だからこそ、第二の「どですかでん」少年もまた、乗車することはなくてもこの機械的なアナウンスの模倣によって、乗車することと似たような反復の快感を招き寄せていたに違いないのだ。つまり彼らにとって鉄道が快感なのは、それが走行にせよアナウンスにせよ、ひたすら機械的な反復によって構成されているからである。さらに言えば、最初の少年が朝から晩まで乗車し続けることができたり、後者の少年が15年間にわたってアナウンスし続けることができるのも、この単調な機械的反復に彼らが取りつかれているからに他なるまい。彼らは反復すること自体に快感を感じているので、全く飽きることを知らない。実際私が目撃した二人の少年はいずれも、完全に充足した世界の中に生きているように見えた。15年間やり続けても飽きることのない、単調な反復の時間のなかに彼らは生きている。こうして私たちは、「どですかでん」たちが、フロイトのいう「機械的な身体の運動が、快感を生み出す」ことに取りつかれてしまった少年であることを確認した。
 では映画はどうだろう。映画は鉄道と同様に機械的な反復と関係あるだろうか。間違いなくそうである。もはや紙幅もつきてきたので簡単にだけ触れておくことにしよう。映画は一秒間に24コマの映像が機械的に反復して映写されることによって成り立っている。むろん実際に映画を見ているとき、私たちは写し出された内容に注目しているので、それが間歇的な24コマの映像によって構成されることなど意識しないだろう。それは意識のうえでは滑らかに流れている映像として見えている。しかし私たちは本当にそれしか見ていないだろうか。たとえばフィルム上の無数のひっかき傷が、1/24秒のスピードで断続的に現れては消える運動を私たちは意識の隅っこで知覚しているのではないか。私たちの身体は、光が反復的についたり消えたりする運動として映画を経験しているのではないか。映画を見るという経験の根底に存在しているこの機械的反復が、映画の快楽の重要な源泉である。これが私の仮説である(詳細は次号)。