TopMenu



長谷正人
千葉大学文学部社会学・映像文化論


[10]子供、カメラ、『ドイツ零年』

 映画史のなかで、「子供」を主人公とした作品は無数にある。しかもそうした映画における「子供」の描かれ方は実に多様である。小津安二郎『突貫小僧』('29年)やジャン・ヴィゴ『新学期操行ゼロ』('33年)のように子供のアナーキーで秩序破壊的な力を主題とした傑作もあれば、スピルバーグ『E.T.』('86年)やフリードキン『エクソシスト』('73年)のように子供に神秘的で超自然的な力を宿らせた(大抵は)凡庸な作品群もある。また曽根中生『持多っ子純情』('78年)や相米慎二『ションベン・ライダー』('83年)のように子供ののびやかな身振りを鮮やかに捉えた作品もあれば、ロブ・ライナー『スタンド・バイ・ミー』('86年)のように少年期の無垢で幸福な世果をノスタルジックに描いただけの退屈な作品もある。だがこうした数多い「子供」映画のうちでも、ここで私が特に注目したいのは、ロッセリーニ『ドイツ零年』('48年)あたりに始まって、トリュフォー『大人は判ってくれない』('59年)、カネフスキー『動くな、死ね、蘇れ』('89年)やキアロスタミ『友だちのうちはどこ?』('87年)にいたる、ある共通の特徴を持った一連の傑作群の系譜である。こうした作品群は、アナーキーさや神秘性や純粋無垢さといった子供自体の特性を対象として描くというより、子供の「眼」(視線)を通して、現実世界の残酷さや呵責なき厳しさを描き出してみせている。つまりこれらは、子供的視線によってこの現実の有り様をなまなましく描いてみせるタイプの映画なのである。
 だが決して勘違いしてはならない。この子供的視線は、例えば小津の『生まれてはみたけれど』('32年)の場合のような、大人社会の規範(会社の上下関係等)のこっけいさや醜さを暴露してしまうような批判的限差しとは微妙に違っているからだ。事実ここでの子供たちの視線は、小津の子供たちが彼ら自身の視点に立って大人社会の虚飾を発見していくときの能動性と主体性を全く持っていない。反対に彼らの視線は、眼の前に起きている出来事をただ無防備に受容する他はない、全く「受動的」な視線である。その典型例として『友だちのうちはどこ?』の主人公アハマッド少年の、あの素晴らしい「眼」を思い出して頂きたい。いつも大きく見開かれた彼の眼は、様々な出来事に興味を持って能動的に世界に向けられる好奇心の視線というよりも、見たくない出来事までをも含めて全てが視界に入り込んで来てしまうことに脅えるばかりの恐怖の視線だったと言えよう。つまり彼の「眼」は、いやそしてロッセリーニやトリュフォーやカネフスキーに出てくる子供たちの「眼」もまた、荒々しい現実世界を剥き出しのまま受容する以外に能力を持たない独特のものなのだ。
 言うまでもなく、こうしたアハマッド的な現実受容の視線は、私だちがこれまで論じてきたカメラ的視線(あるいは連賽シャンタルの言う「包括的な視線」)そのものである。つまりこれらの傑作映画群は、子供という「カメラ」を主人公とし、カメラ的視線によって捉えられたなまなましい現実を私たち観客に提示してきたのだと言えよう。(逆に言えば、後で説明するように、普通の凡庸な映画作品は、モンタージュを始めとする様々な映画的技法(大人の視線)によってカメラ的視線(子供の視線)を隠蔽し、世界を理解可能な意味(文化)として提示してきたのである)しかしここで注意したいのは、カメラ的な受容性を持つのは子供たちの「眼」だけではないということだ。彼らは五感全部を使って、全身でありのままに現実を受け止めており、その意味で全身がカメラと化しているのだ。例えばアハマッド少年が、夜遅く床の上にノートを広げて宿題をしているとき、突如として部屋の扉が開いて強風が吹き込んで来る素晴らしいシーンを思い出そう。扉の向こうの闇の中には、大きな白い洗濯物のシーツが強風に翻っているのだが、そのとき彼はまさに母親の庇護も家屋の防護壁もなく、素肌のまま全身で風と闇を受け止めようとしているだろう。つまり彼は全身がカメラとなって世界をありのままに受容しようとしているかのようなのだ。そして、その痛々しさと残酷さと何とも言えない甘美さとが、この映画の魅力なのである。
 そして、映画全体をそうした子供のカメラ的経験によって構成することに最も成功した傑作として、やはりロッセりーニの『ドイツ零年』を挙げなければなるまい。映画は第二次世界大戦終了直後のベルリンを舞台にしている。空襲のためそこは凄まじいばかりの廃墟になっており、人々は建物の瓦礫の山の間で辛うじて生きている感じだ。物語の主人公は、その廃墟のなかでぎりぎりの貧困生活をおくる一家の末っ子、エドムンド少年である。父親は病気で、兄は連合国に捕まることを恐れて働けないため、彼自身が学校にも行かずに一家の生活費を稼がなければならない。だが、彼なりにあらゆる金儲けを試みてみても、なかなか上手くいかない。彼の周囲には、誰もが必死に生き廷びようとして他人を出し抜くことばかり考えている厳しい状況が広がっており、手供が上手く入り込む隙間など全くないようなのだ。そんなある日彼は、かつて小学校で教わっていたナチスの先生に出会う。この元先生は、生存競争に敗れた弱者など生きる資格がないのだから始未してしまえば良い、といったナチス思想を少年に吹き込んでしまう。すると本当にその教えに従った少年は、病床に臥せって家族に迷惑をかけていることに悩んでいる父親を、毒を盛って殺してしまう。だが犯行後、この少年ば家の向かい建物から飛び下り自殺し、そのまま映画は終わる。
 この少年は、まさにカメラのように現実を経験していたと言えよう。なぜなら彼は、自分の置かれた厳しい状況に対して強い「情動」的な反応(泣くとか怒るとか)を示すこともなければ、その状況を改善するような能動的な「行動」を起こしたりすることもなく、ひたすら受動的な姿勢で、目の前に起きる残酷な現実や悲惨な出来事をただ見たり、聞いたりするばかりだからだ。逆に言えばこの映画は、エドムンド少年が何らかの目的のために「能動的に」行動することによってストーリーが展開していくことは決してない。彼がカメラとしてありのままに受容してしまう残酷な現実がそのまま描写されるばかりである。確かに、ラストシーンで彼は悲惨な家計状況を改善するために父親を殺害し、自らも自害してはいる。これは普通なら、物語を大きく展開させる重要なアクションのはずである。だが私たち観客がどう見ても、彼の殺人と自殺は、明確な意図や強い感情を持ってやったようには見えない。少年はまるで夢遊病者のように意識もなく殺人を犯し、そのまま無表情に廃墟を歩き回って唐突に飛び下り自殺したかのようなのだ。言わば彼は、自らの行為自体をも、カメラとして眺めてしまっているのだと言えよう。
 こうしてこの系譜に属する映画群は、エドムンドやモハマッドのような子供による受動的経験を通して、カメラ的ななまなましい現実を提示することに成功してきたのだと言えよう。しかし、もしかしたらこれは奇妙な言い方に聞こえるかもしれない。全ての映画の全てのショットはカメラによって撮影されているのだから、そもそもカメラ的受容性を持っていなければおかしいのではないだろうか。しかし、ハリウッド的物語映画を代表とするほとんどの映画は、カメラ的な受容性によって捉えられた剥き出しの現実をつねに恐怖し、隠蔽しようとしてきだた。そうした剥き出しの映像は、物語のなかで何の機能も果たさない無意味な映像になってしまうためである。従って映画監督たちは、撮影技法、演出、照明、セット、編集などといったあらゆる方法によって、カメラが(監督の意志に従って)ある現実を「能動的に」捉えたかのように装ってきた。そして、その「能動性」の装いの巧みさこそが監督の才能の証だと信じてきたのだ。だから映画が、映画カメラの受容性を正直に露呈させる勇気を持つためには、長い歴史を必要とした。『ドイツ零年』('48年)は恐らく、そうしたカメラ的視線によるもう一つの映画史の開始を告げる起源に位置するものだったと言えよう。そうしたもう一つの映画史の起源をひとは普通イタリアン・ネオリアリズモと名付け、やがてトリュフォーらのヌーヴェル・ヴァーグへと至る先駆けとして論じてきた。だが、この歴史を詳しく語るにはまた別の論考が必要となるだろう。私が今回ここで言いたかったことは、そうしたカメラ的視線の映画への導入において、「子供」が重要な役割を果たしたということである。あらゆる文化的・社会的枠組みから自由になって、剥き出しの現実をありのままに受容してしまう手供の痛ましい視線こそが、ヌーヴェル・ヴァーダからキアロスタミまでに至るあらゆる「リアリズム」映画の歴史の中に宿っていたのである。