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長谷正人
千葉大学文学部社会学・映像文化論


[8]まなざしなき視覚とヴァーチャル・リアリティ

 これまで私たちは、写真という「映像」が人間に対して持ってきた「存在論的(オントロジカル)」な意味について論じてきた。つまり私たちの議論においては、写真は、人間の「眼」に対して視覚的イメージを与えるものなどではなく、現実の「痕跡」を私たちの身体(眼を中心とした)に対して触覚的に感じさせるものであった。私たちは遠い昔の知らない人々の団体旅行の集合写真などを偶然目にして、「この人々はあるとき間違いなくカメラの前に立ってカメラを見つめていた。その瞬間に彼らから発した光線が定着されて今ここに届けられている」という事実に戦慄してしまう。バルト的に言うならば、「それはかつてあった」という絶対的な事実、あるいはその時の光線が時空を越えて私たちの眼や身体に触れてくるような感覚に目眩がするというわけだ。
 だが、近年におけるヴァーチャル・リアリティの諸テクノロジーは、こうした映像の「触覚性」を根本的に変容させているように思われる。なぜなら、これらのテクノロジーは現実の「痕跡」を私たちにもたらすものではなく、私たちの眼と脳に対してあるイメージを見させること、もしくは「見ている」かのように錯覚させることを狙っているからである。従ってヴァーチャル・リアリティのイメージに私たちが「触覚的」な感覚を揺り動かされることなどない。私たちは与えられたイメージを、ひたすら視覚的に見る以外にないだろう。
 例えば、住宅展示場用に開発されたヴァーチャル・リアリティ・テクノロジーのことを思い出そう。そこでは、HMD(ヘッド・マウンテッド・ディスプレイ)を被った人間が、360度上下左右どこに顔の向きを変えようが、そこに必ず家の立体的構造を正確に反映したイメージを見ることができるようになっている。上を見れば天井があるように見え、横を向けば戸棚があるように見え、前を見れば流し台があるように見える。つまりある部屋のイメージに身体ごと取り囲まれているように見えるのだ。そしてゆっくり前進してみると、流し台を中心にした眼の前の光景が段々近づいてくるように見えるだろう。本当はそこには何もない。だが私たちはヴァーチャル・リアリティによって、本当にそこに家があるかのように視覚的に錯覚し、その住み心地を仮想的に経験することができるのである。
 つまりヴァーチャル・リアリティは、それを見る観客(?)にとってどのように「見えているか」だけを問題とし、観客にとっての「主観的」イメージを設計し生産するテクノロジーなのだ。言わば、イメージの人間中心主義と言えるだろう。むろんそれは、写真とは全く違う。写真は、人間の見ている視覚的イメージとは関係なく、現実の「痕跡」をそのまま私たちに与えていたにすぎないのだから。言わばそれは、反=人間的イメージ(客観的物質)を生産するものだったのだ。その反=人間性に私たちは触覚的に反応していた。人間が皆死滅してしまって誰一人見る者がいなくとも、撮影された「写真」は間違いなく「存在」し続けるという事実(非=人間性)にこそ戦慄していた。しかし、ヴァーチャル・リアリティは、人間的「視覚」によってしか成立し得ない。それは写真のように人間の外部に客観的に存在するのではなく、人間の「眼と脳」の中にしか存在しないのだ。たとえば私たちが、3D映画の映写中に眼鏡を外した瞬間、さっきまで見えていた立体的な美しいイメージが雲散霧消してしまうように(そこには訳の分からないゴチャゴチャした色彩の氾濫があるばかりだ)、それは人間的錯覚の中にのみ存在する。こうして私たちは現在、反=人間的イメージから人間的イメージヘの転換を経験しているのだと言えよう。この人間中心主義的イメージを極端に押進めて行った場合、「眼」という器官さえも必要なくなるだろう。「見た」ように錯覚させるのならば、直接「脳」に錯覚させた方が早いのではないか。そう考えればヴァーチャル・リアリティは、「眼」のない人間にさえも視覚を与えることができるようなテクノロジーとなる。(だからこそ、ヴィム・ヴェンダースは彼の映画(『夢の果てまでも』)のなかで、盲目の老女(ジャンヌ・モロー)に視覚的イメージを与えるテクノロジーを登場させたのである)ポール・ウィリリオは、彼の素晴らしいエッセイ「潜在的イメージ(「GS」第5号「電視進化論」、1987年、冬樹社所収)のなかでこうした「まなざしなきイメージ」について論じている。

 「いまこそ、潜在的イメージ、つまり心的あるいは器具による視覚的記憶の持続以外には持続を持たない、明白な支持体なしの画像の、本質を考えなおしてみるべきときなのではないだろうか?」

 こうして私たちは現在、まなざしなきイメージを夢見ているのではないかという仮説を立てることができる。例えば麻薬によって幻覚的イメージを見たがる人々のように、私たちは自分自身の身体の中で自律的に生産できる、完全に主観的なイメージを見たがっているのではないか。誰にも束縛されることのない自由な幻想のイメージの中を漂いたがっているのではないか。しかし、こうしたまなざしなき主観的イメージが何物にも束縛されない自由なイメージであると本当に言えるだろうか? 私たちは機械による束縛としてのカメラ的映像(非=人間的)から解放されて、自由になったと本当に言えるだろうか? 恐らく言えないであろう。ヴァーチャル・リアリティにせよ、麻薬にせよ、私たちに純粋な「主観的イメージ」を見させるためには、私たちの身体に対して強い刺激とコントロールを加えなければならないのだから。ヴァーチャル・リアリティとはまさに、私たちの視覚を徹底的にコントロ一ルするテクノロジーに他ならないのだから(HMDの中の幻想的イメージに漂う人間は、外側から見ればHMDの世界に閉じ込められた不自由な人間にすぎないのだから。
 事実、こうした「主観的イメージ」を科学的観察の対象とするような言説は、19世紀西欧社会において、「眼」に対する暴力を伴って出現している。「眼」が主観的な器官であって、眼の前にある事物を受容するだけの受動的器官ではないことを証明しようとした当時の学者たちは、被験者の身体に熱を与えたり、トンカチで殴って刺激を与えたり、強烈な音を聞かせたりしている。「イメージ」がまなざしとは関係なく、熱や圧力や音によって人間に出現することを示すためなのである。全くぞっとするような話だ。確かに、強く殴られれば目の前に星のようなものがキラキラきらめいて見えるだろう。なるほど私たちはそのとき、対象物のない「主観的イメージ」を幻想として見ているのだろう。だが、この純粋に主観的なイメージを出現させているのは、人間に対する暴力そのものである。だから私たちは、ヴァーチャル・リアリティが主観的で自由なイメージであるかのような流行の言説に対しては、それが人間の視覚に対する撤底的な暴力であることを示すような言説によって対抗しなければなるまい。つまりここには、人間中心主義的なイメージを作りだすテクノロジーが、同時に人間の視覚に対する暴力(人間の否定)でもあるというパラドックスが存在するのである。