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長谷正人
千葉大学文学部社会学・映像文化論


[4]聖遺物

 映画批評家であり、ヌーヴェル・ヴァーグを精神的父親のような立場から擁護した人物として著名なアンドレバザンが、写真に関する極めて興味深い論文を1945年に書いている。実はこの連載のタイトルは、そのバザン論文のタイトル=「写真映像の存在論」(「映画は何か II」美術出版社所収)から借りてきたものなのだ。だからやはり、バザンのこの論文について一度は触れておく必要があるだろう。
 バザンはこの論文において、「写真」という芸術の特徴が「人間の不在」にあることを主張している。すなわち他の芸術(絵画や彫刻)が全て、何らかの意味で人間(芸術家)の「表現する意志」に基づいて人為的に製作されるのに対して、写真は人間が関与しない「自動的な形成」によって製作されたにすぎないといえるからだ。もちろんカメラマンは、カメラを自分の好きな場所におき、好きな角度から現実を切り取ることができる。だが、彼がコントロールできるのはそこまでだ。そのフレームの内側に生じることに関しては、彼は自然に任すしかないだろう。これまでも繰り返してきたように、カメラは自分の方へとかってくる光線を受動的に受けとめるだけなのだから。たとえば、都市の雑踏の光景を撮影するとき、そこに何がどのように写しこまれるかを、カメラマンは全くコントロールできないだろう。画家が同じ都市の光景を写生する場合ならば、目に見えたものの中から好きなように取捨選択してきて画家独自の世界を表現できるのに。従ってバザンは、写真を人為的な「芸術作品」であるというよりは「自然現象」のようなものだとさえ言うことになる(同書20頁)。

 「写真は、花や雪の結晶と同じように−−それらの美しさは、それらが植物として、あるいはこの大地から、生まれたことと切り離せない−−、<自然現象>としてわれに働きかけるのである」

 そう。写真はまさに、現実の「光」の結晶のようなものだと言えよう。実際、あの結晶のキラキラした輝きに対する私たちの驚嘆と、ある種の写真に抱く私たちの感動は良く似ているだろう。だから、(これも繰り返しになるが)写真の本質は「現実」に類似しているというところにあるのではない。「ピントが外れてぼやけたり、形が歪んだり、色が変化したり、資料的価値がなかったりすることがあるかもしれないが、その生まれてくる過程(現実の一部が光として切り取られたこと=引用者注)を考えれば」(同書、22頁)、そうした現実に類似していない写真も、やはり写真そのものなのである。いやそれどころか、それらは現実に類似してしまっている(視覚的な)普通の写真以上に、「触覚性」という写真の本質を露わにするような写真なのだ。つまり、あるときカメラに向かって進行し、写真乾板の表面に「触れた」光線を「結晶」として定着したものであるという本質をそれは露呈させている。−−だからたとえば、日本の1970年代の『プロヴォーク』系の写真家たち(中平卓馬、森山大道ら)が、わざとブレたりボケたりした写真(ブレボケ!)を撮ったのも、この写真の「触覚性」という本質を追求するためだったと言えよう。彼らの試みは(彼ら自身がどう考えていたかにかかわらず)けっして写真の新たな可能性を探究しようとする試みだったのではなく、写真をその最も本質的で純粋な原点にまで還元しようとする試みだったのである。
 こうしてバザンの分析もまた、『明るい部屋』のロランバルトと同様に「触覚性」としての写真にたどり着くことになる。そしてやはり同様に、ある種の「神聖性」なり「霊性」の問題にも触れざるを得なくなる。バルトは、今は亡き自分の母親の写真を見て、その眼がいまここに触れにやってくるような感覚を覚えて気が狂ったようになるのであった。バザンもまた、肖像写真におけるこの「死者の霊」の間題を無視できない。つまり、肖像写真は死者が私たちに残した「痕跡」のようなものだからだ。生きていたときに彼が発した光(の結晶)に、私たちは彼が死んだあともなまなましく「触れる」ことができるという意味で。だからバザンは、写真をキリスト教における「聖遺物」のようなものだと言う。聖遺物とは、キリストを始めとする聖人たちの身体の一部−−腕だとか脚だとか−−を残したものである。あるいはまた、彼は写真は「形見」のようなものだとも言う。つまりバザンが言いたいのは、私たち人間が、死者の写真を、彼の残した身体の一部であるかのように扱うメンタリティを持っているということであろう。しかも、そのメンタリティは自分の親族や恋人の写真に対してのみ生じるものではないはずだ。たとえば私は、名も知らぬ戦前の女学生達の集団が修学旅行先等で整列して撮った記念写真を見ていると(ある意味では、面白くも何ともない写真だ)、何だか泣きたいような奇妙な気分に襲われることがある。そのときの気分が、それだろう。恐らく私は、もはや死んだかもしれない彼女たちの「痕跡」に触れてしまっいることに、どうしようもなく感動してしまうのである。まるでバルトが自分の亡き母親の写真を見ているときのように。だからバルトの狂気は、けっして彼の母親への愛情の問題ではなく、写真の間題そのものであると言わねばなるまい。
 バザンの写真分析は、このように実に鋭いものである。にもかかわらずこの論文は微妙な読みにくさを伴っているように思う。バザンが、写真を絵画などの芸術の延長として論じようとしているからである。たとえば彼は、絵画製作の根底にあり続けた「現実の複製」への人間の無意識的欲望が、写真によって実現されたかのように論じている。しかし、彼自身が言うように、写真とは自然現象のように人間が関与し得ないオートマティックな現実なのであった。だから、それはけっして人間の欲望の実現でも、その欲望の表現としての芸術でもない。それは人間とも芸術とも関係なく、ただ端的に「現実」としてある自然現象にすぎない。従って、もし写真が芸術と関わることがあるとしても(むろん事実関わってきたのだが)、あるパラドックスを内包せざるを得ないだろう。何しろカメラは、芸術家としての写真家のコントロールを受け付けないのだから。つまり写真は芸術的であろうとすればするほど非=芸術的になり(ビクトリアリズムの醜悪さを思い出せ)、芸術的であることを止めた瞬間にある種の芸術性を獲得してしまうのである(アジェを思い出せ)。もし私がこれから芸術としての写真を論じるとするなら、こうした視点からでなければなるまい。