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佐伯格五郎
(JCIIフオトサロン・キユレーター・日本カメラ博物館運営員)



第4回
ライカ物語4



 かねてから、ライカは誕生以来、ボディー番号に対して、特別な意識が企業全体に行き渡っていたと思われる。ボディー番号100から129番までが0型ライカでモニター用、製品化された1925年のライカI型(日本ではA)は130番から始まっているが、区切りのよい番号はライツ社が特別な人達に贈ってその功績を讃えているのである。ここでは、そのラッキー番号とでもいうべきボディー番号とそれを贈られた人達を列挙してみよう。
 1928年ライカI型(A)のボディー番号10,000は、ツェッペリン飛行船の発明者ヒューゴー・エッケナー博士に贈られている。ツェッペリン飛行船が来日したとき、エッケナー博士の胸にあったライカを木村伊兵衛さんが見ているようで木村さんとライカとの接点となっている。
 1929年ライカI型(A)のボディー番号25,000は、スエーデンのアジア探検家、スヴェン・エディン氏に贈られた。
 1930年ライカI型(C)ボディー番号25,000はチベット探検家、ウイルヘルム・フィルヒナー博士へ贈られる。
 1932年ライカII(DII)ボディー番号75,000は成層圏飛行で有名なアウグスト・ピカール教授へ贈られた。
 1933年ライカII(DII)ボディー番号100,000はアフリカ探検家レオー・フロベニウス教授へ贈られた。
 1933年、ライカIII(DIII)ボディー番号125,000はコダクロームカラーフィルムの共同発明者マンネス氏に贈られた。
 1936年ライカIIIa型ボディー番号200,000は写真家パール・ヴォルフ博士に贈られている。パール・ヴォルフは前にも紹介したライカ使いの名手として、日本で展覧会を開催したり、「ライカ写真」などのライカによる写真の数々を紹介しながら、ライカの特長や利点を当時の日本に知らせている。
 1937年ライカIIIa型ボディー番号250,000は先にライカI型(C)ボディー番号25,000を贈られたウイルヘルム・フィルヒナー博士が、そのライカI型を中央アジア探検中に放置してきた代わりに再び贈られている。
 1938年ライカスタンダード型、ボディー番号300,000は、アグファカラーの共同発明者グスタフ・ウィルマンズ博士に贈られている。
 1940年ライカIIIb型ボディー番号350,000はアグファカラーの共同発明者ウィルヘルム・シュナイダー博士に贈られている。
 こうしてライカ誕生以来の贈られた方々を見ると、20世紀の前半の地球探検時代、そして後半のより豊かな生活への発明進歩時代が見えてくる。