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佐伯格五郎
(JCIIフオトサロン・キユレーター・日本カメラ博物館運営員)



第1回
ライカ誕生のいきさつ



 第1次世界大戦も間近かな1913年、ドイツのギーセン市に近いウエツラーにある顕微鏡メーカー、エルンスト・ライツ社の技師、オスカー・バルナックが変ったカメラを作製した。35ミリ映画用フィルムを使い、映画の2コマ分、つまり24×36ミリ判のネガ面積を持つカメラである。顕微鏡メーカーの技師がなぜこんなカメラを作ったのであろうか? 真相は歴史の闇に消えているが、いろいろな説がある。このなかからひとつあげると、もともとバルナックは映画撮影が趣味であったが、当時のフィルムは感度があまり正確でなかったらしい。そこで、この新しく考えたカメラにそのフィルムを入れ、実際に写して現像し、フィルムの感度を判断しようというつもりであったという。つまり露出計代りのフィルム感度測定機というわけである。彼は同じカメラを2台作り、1台を当時の社長であったエルンスト・ライツI世に渡し、もう1台を手許においていたという。ライツI世はこのカメラを見てすぐその卓越した機能を見抜き、カメラとしての開発を考えたという。とことが第1次世界大戦が勃発(1914-18年)、カメラどころではなく、軍需要の光学兵器を生産することになってしまった。第1次大戦後の1920年、3台目の試作カメラを作ったが、このときはすでにライツI世は亡くなっているので、ライツII世に見せている。この頃はすでにカメラとしての機能を念頭においての設計のようだ。エルンスト・ライツ社は創業l849年という精密機器メーカーで、カメラは手がけていなかったが、第1次世界大戦後の超インフレの時代、カメラを生産することによって、企業の安定化を考えたと思われる。したがってひとりの解雇者もいなかったという。全員一丸となってカメラ作りに変身したわけで、このあたりは第2次世界大戦後の日本の光学メーカーと同じ推移である。しかし発売までには3台も試作カメラだけでなく、0(ゼロ)型と呼ばれる試作カメラを30台作って、実用テストをいろいろ行った。だからこの0型カメラは1台ごとに細部のデテールが違っているのである。ボディー番号は100番から129番まで。したがって1〜99番は捨て番である。1925年春、ライカと命名されたこの35ミリ判カメラは華々しくライプチヒ市の見本市に出品され、大人気を博した。発表と同時に売り出したが、用意した500台はまたたく間に売り切れてしまった。後にライカのボディー番号、および形式がきちんと整備され、ライカの信用度が、モニターテストの大切さを今日教えてくれている。