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 アジア映画の基本 4  石坂健治

 世界には数多くの映画祭がある。三大映画祭と呼ばれるヴェネツィア、カンヌ、ベルリンを筆頭に、大小様々なフェスティバルが各々の特徴を生かした大イヴェントを繰り広げている一方で、諸々の事情で廃止に追い込まれるところもある。映画好きのイメルダ・マルコスが始めたマニラ国際映画祭は2回で潰れた。欧米と肩を並べることに気合を入れたイメルダの指揮下、この2年間だけフィリピン映画はへア解禁だったが、軌道に乗る前にこの女王が追放されてしまった。日本では、バブル期の80年代後半、多くの映画祭が創設された。85年に始まった東京国際映画祭のように続いているものもあれば、バブル崩壊とともにスポンサーが降りたため、幻になってしまった映画祭も少なくない。本家カンヌの一部門をそのまま引っ越し上映することが“売り”だった「湘南カンヌ映画祭」なんて覚えてますか? バブルの象徴のようなこの映画祭は、儚くも3回で消えてしまった。
 アジア映画に焦点を絞った映画祭となると、老舖のハワイ、ナント(仏)、香港、インドに加え、振興勢力のシンガポール、福岡(アジア映画祭)、同(アジアフォーカス映画祭)、山形、上海、釜山など、百花繚乱の様相を呈しつつある。しかし、実はこれらに先んじること数十年、1954年から続いている映画祭があることは案外知られていない。「アジア太平洋映画祭」(83年まで「アジア映画祭」)がそれ。黄金時代を迎えつつあった日本映画界の首領(ドン)、大映の永田ラッパこと永田雅一が、香港の大物プロデューサー、ショウ兄弟と粗んで始めたプロジェクトで、第1回を東京で開始して以来、毎年加盟国の都市で持ち回り開催を続けている(開催地一覧表を参照のこと)。日本は最多開催国で、これまで8回(東京6回、京都・福岡各1回)行っているのだが、知名度はおそらくかなり低い。1960年生まれの筆者は創設当時の状況を知らないが、アジア各国の映画の水準を引き上げるために日本がリーダーシップをとって運営する、という色合いが強かったらしい。例えば1961年のマニラ大会のグランプリは小津安二郎の『秋日和』だが、小津のキャリアに「アジア映画祭グランプリ」と記戴されることはまずない。また、85年の東京大会は第1回東京国際映画祭と同時に行われ、グランプリを受賞したペ・チャンホ『ディープ・ブルー・ナイト』(韓国)を筆頭に、侯孝腎(ホウ・シャオシェン)『冬冬の夏休み』〈台湾)、楊徳昌(エドワード・ヤン)『幼馴染み(原題:青梅竹馬)』(台湾)、梁普智(レオン・ポーチ)『風の輝く朝に一等待黎明』(香港)など、その後のアジア映画ブームの中心となった作品が多数上映されたにもかかわらず、当時は話題にもならなかった。こうしたことから考えてみても、日本の映画界とマスコミにとって、この映画祭は全く重要視されていなかったのである。
 実際、問題点の多い映画祭ではある。大量の賞を出し、プロデューサーの懇親会といった雰囲気が強く、関係者中心の非公開映画祭の場合もある。また、各年度の受賞リスト等の資料が開催国の事務局(日本は社団法人日本映画製作者連盟)ごとに散らばっており、全体像を把握することが甚だ困難なのだ。世界のメジャーな映画祭でアジア映画が次々と受賞を果たす現在にあって、どうしてこの映画祭が継続しているのか。それはひとえに、アジア各国で「アジア太平洋映画祭で受賞」という事実が大いなる名誉、ブランドとなるからなのだ。タイやマレーシアの映画博物館や映画会社に行くと、アジア映画祭の卜ロフィーが一番目立つ場所に置かれて燦然と輝いている。いまだに国内興行に威力を発揮するのだろう。アジア太平洋映画祭に関するかぎり、日本とそれ以外のアジアのギャップは意外に大きい。
 さて、この映画祭が創設された1950年代に、「進んだ日本映画と遅れたアジア映画」という認識の枠組みがあったのではないか、と述べた。溝口、小津、黒澤、木下、五所、豊田、今井、……といった巨匠たちが活躍していた日本映画の黄金時代にあって、映画関係者たちがそう思っていたのは想像に難くない。しかし、例えば61年のアジア映画祭(マニラ)で小津の『秋日和』を圧倒する評価を受けたと言われる金綺泳(キム・ギョン)のサイコ・スリラーの傑作『下女』(韓国)や、やはり61年に製作されたフィリピンの巨匠へラルド・デ・レオンの『ノリ・メ・タンヘレ(我に触れるな)』、さらにマレーの国民的スター、P・ラムリーのコメディー『アリババ』など、アジア映画の古典の偉丈夫ぶりをみるにつけ、「進んだ日本映画と遅れたアジア映画」という長く続いた認識が、日本という自閉した「内部」だけで出来上がっていた自己満足だったのではないか、という思いを強く感じる。おそらく、我々が知らないアジア映画史の空白を明らかにすることで、この自閉的な認識を読みかえる必要があるのではないか。これは決して“アジア映画を応援しなくては”という「対アジア良い子」(Copyright 呉智英)的な態度ではない。

アジア映画祭開催地
都市名開催年
第1回
第2回
第3回
第4回
第5回
第6回
第7回
第8回
第9回
第10回
第11回
第12回
第13回
第14回
中止
第15回
第16回
第17回
第18回
第19回
第20回
第21回
第22回
第23回
第24回
第25回
第26回
中止
第27回
第28回
第29回
第30回
第31回
第32回
第33回
第34回
第35回
第36回
第37回
第38回
第39回
第40回
第41回
東京
シンガポール
香港
東京
マニラ
クアラルンプール
東京
マニラ
ソウル
東京
台北
京都
ソウル
東京
ソウル
マニラ
ジャカルタ
台北
ソウル
シンガポール
台北
ジャカルタ
釜山
バンコク
シドニー
シンガポール
ジヨク・ジャカルタ
マニラ
クアラルンプール
台北
バンコク
東京
ソウル
台北
プーケット
ジャカルタ
クチン
台北
ソウル
福岡
シドニー
ジャカルタ
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